1.江戸の舟運路開発 家康の大都市設計と舟運 家康が一五九〇年、太田道灌が造った小規模な江戸城に立って周囲を見渡したとき、背後は武蔵野台地、神田台地、上野台地が織りなし、眼前は海(日比谷入り江)。その向こうには、細長い島(江戸前島)が飛びだしており、その先は、ほとんど湿地帯で海が迫っている状況であった。家康は唖然としたに相違ない。しかし彼は普通の人ではなかった。周囲を歩き、調査し、日本の中核にして、江戸百万都市を構築するという大構想を抱く。それは広大な江戸城郭を中心に、類を見ない規模の舟運路を張り巡らせた大都市構想である。川や海を利用した舟運による運搬量は、陸上の牛や馬による運搬量とは桁違いに大きく、合理的である。したがって舟運路の構築は、大都市建設の絶対条件であると彼は見抜いていたのである。 当時、江戸の中核部分に流れ込んでいた川はどのような状況であったのか。まず眼前の日比谷入り江に平川と小石川が流れ込んでいる。東に行くと石神井川が上野台地を巡って江戸湾に入り込んでいる。そして主役の入間川が州を作って江戸湾に流れ込んでいる(隅田川)。そのずっと先には利根川と渡良瀬川が並んで江戸湾に。古江戸城から南を見ると、古川、目黒川、立会川が江戸湾に流れ込み、出口は大きな入り江になっている。特に古川の入り江は大きい。そしてその遙か先に多摩川が大きな州を作って流入している。 埋め立て まず、人が住める土地を生み出すことである。周囲の山を削り、海に向かって埋め立てによる広大な土地の確保と建設が始まる。最初に日比谷入り江を埋め立て。次に江戸前島東の江戸湾埋め立てに入る。最終的には隅田川沿いの霊巌島まで埋め立てる。隅田川を渡ると本所、深川の湿地帯。それも深川の大部分は水没湿地帯。その後、江戸湾に向かって埋め立て整備が続き、結果、沖の百万坪といわれる、広大な深川が誕生する。 物資運搬の中核・・・日本橋川の掘削 江戸建設と舟運路建設が同時進行で行われているのが江戸普請の特徴である。まず、江戸前島の北側に、道三堀を掘る。城から見ると真ん前である。次いで隅田川に繋がる日本橋川を掘削する。これで城の建設資材を海、隅田川河口から直接現場に持ち込める、舟運ルートが出来上がる。そしてこの日本橋川を軸に江戸の町が発展していく。雪旦が江戸名所図会で描く、日本橋川の光景を見ると、物資を運ぶ舟で身動きがとれない様が伺える。 大外堀と重要な船運路・・・神田川の掘削 神田川の開削は、広大な江戸城を取り巻く、大外堀として、また物資運搬の舟運路として計画された。神田川は井の頭池に端を発し、善福寺川を加え、江戸に入る。この流れを隅田川まで横一直線に掘削するのである。北から日比谷入り江に流れ込んでいた平川、小石川を神田川に落とし、神田山を割って東へ掘削。北からの石神井川の流れも吸収し、大きな流れとなって隅田川に出る(柳橋)。神田川の開削は度々、氾濫を起こした平川、小石川、石神井川の治水対策でもあった。次に神田川、飯田橋辺りから江戸城西側の外堀が掘削されていく。 江戸城東湾岸の埋め立てと舟運路開発 そして神田川和泉橋付近から隅田川河口に向かって浜町川を掘削。途中、江戸城に向かって龍閑川を引く。これらは、重要な運搬ルートになる。次いで日本橋川から汐留にいたる江戸湾沿いの東面を海に向かって埋め立てる。日本橋川から汐留までの縦の舟運路、楓川、三十間堀川を開削。このラインが当時の海岸線であった。その先を埋め立てていって、楓川、三十間堀川を造っている。最初から緻密な舟運路の絵図面が織り込まれている工事の仕方である。三十間堀川の終点は汐留。すなわち溜池から汐留までの汐留川を外堀となし、汐留で三十間堀川に繋がっているわけである。 これから先の海に向かっての埋め立て地は、水路に仕切られた、ブロック地形を形成していく。例えば浜御殿。周囲は、水路で囲まれている。こうして、ブロック地区ごとに、大名の下屋敷、築地本願寺、霊巌寺といった具合に割り当てがなされていく。亀島川はこのブロック間を縫う大きな流れである。京橋川は江戸の中核から海へと繋がっている。すなわち、物資運搬の舟が自由に海から入れる構造である。そして全体を俯瞰すると、堀や運河は、江戸城の城郭を幾重にも取り巻いているのである。このように江戸の都市造りは、舟運路を軸に設計されているのである。 この後、広大な江戸城を囲む、「の」の字の形で身内の家臣団から順に屋敷が建設されていく。そして、その周囲に職種ごとに町人町ができていく。こうして当時、世界でもまれなる舟運路に囲まれた合理的な大都市が誕生していくのである。 塩の舟運・・・小名木川の掘削 全国から江戸へ人々が集まってくる。城建設の前に家康は塩の導入運搬ルートに着手する。当時、塩はなくてはならぬ食品。幸い、行徳は全国有数の塩の名産地。この塩を安定的に持ち込む船運ルートに着手。陸上ルートでは湿地帯で輸送は困難、江戸湾伝いは埋め立てが進行中、波の影響もある。そこで深川の海岸線内側に東へ運河を掘削、これが小名木川である。東へどんどん掘削すると利根川(後の中川)にぶつかる。渡ってさらに新川堀を掘削。すると、渡良瀬川(後の江戸川)の流れに出る。これを渡れば、行徳である。家康は、塩の増産に力を入れる。このルートは塩だけでなく、野菜、穀物の搬送にも貢献した。小名木川は江戸最初の食品流通舟運ルートなのである。 本所、深川の舟運路 埋め立てにより、新たに醸成された、広大な本所、深川地区も極めて計画的な縦横碁盤の目のような舟運路が完成する。横に、北割下水、南割下水、竪川、小名木川、十間川、大島川、木場。縦に大横川、横十間川(江戸城に向かって横に流れているため)。全て隅田川の水を引き入れ、中川と繋がっている。景観的にも正に、東洋のヴェニスと形容された水の都である。この舟運路が本所、深川の発展を促進したのである。 結果、江戸城を囲んで張り巡らされた、主な舟運路を示したのが図1である。 ■図1 江戸城を囲む舟運路 2.江戸周辺の舟運路の開発 利根川の東遷、荒川の西遷 家康入府以前、江戸周辺の川はどのように流れていたのであろうか。驚くことに、関東屈指の大動脈、利根川は、南下して江戸の東側を流れ、江戸湾に注いでいたのである。そして、その東には、寄り添うように渡良瀬川が走り、同じく江戸湾に注いでいた。また、大きな河川、荒川は東南に流れ、この利根川に合体しており、荒川沿いに走る、綾瀬川も同じく利根川に注いでいた。さらに江戸の西側からは、入間川が入り、その北から降りてくる、和田吉野川、市野川と合体し、江戸湾に向かって流れている(隅田川)。 ■図2 江戸周辺の舟運路開発 百万都市を醸成するためには、米を始めとする大量の物資が江戸に運ばれなければならない。江戸の周囲、水戸までの関東平野、房総を含む広大な地域。ここを穀倉地帯と化し、江戸への物資搬入路を造る。これが家康のねらいである。その大動脈になるのが、荒川であり、利根川である。こうして、利根川の東遷、荒川の西遷という大事業が計画された。家康は、責任担当者に、伊奈忠次を抜擢する。彼は、信長が本能寺で討たれた後、脱出する、例の伊賀越えの際、家康を助けた、腹心の部下である。しかし、この時、家康は、川の治水、土木工事に長けた彼の才能を見抜いていたのである。家康は忠次に利根川沿いに任地( 埼玉県北足立郡伊奈町、鴻巣)を与え、治水奉行を含む、関東代官頭に任命する。 利根川の東遷事業 江戸湾に流れ込んでいる利根川を銚子に向かわせる。具体的には江戸に向かう流路を遮断し、銚子に流れ込んでいる常陸川に繋げ、拡張する。並行して江戸湾に入っている渡良瀬川を新利根川が受け止める。また、鬼怒川、小貝川の流れを、まっすぐ下(南)に変え、これも横一線の利根川に直結させる。結果、水量豊富な渡良瀬川、鬼怒川、小貝川が揃って北から利根川に入ることになる。また霞ヶ浦南からの常陸川の流れを銚子の手前で利根川に繋げる。これによって、北からの物資を霞ヶ浦、利根川経由で江戸に…が可能となる。そして最も重要な工事。利根川の水を関宿から江戸湾に向かわせる新たな分流を造る。これが江戸川である(元渡良瀬川跡を利用)。江戸川は文字通り、江戸への物資船運の主航路である。こうして関東の物資は全て、利根川経由で江戸に運ばれる舟運路が完成する。関東の物資は渡良瀬川、鬼怒川、小貝川、霞ヶ浦を下って、利根川に入り、江戸川経由で江戸に到達する。さらに東北からの物資は、開発された東航路経由で銚子まで下り、銚子湊から利根川に入り、江戸川経由で輸送されることが可能になった(銚子から房総沖経由は黒潮と親潮がぶつかる危険ゾーンのため)。 中川の舟運 利根川の東遷後、江戸への流れは遮断され、川跡のみ残った(古利根川)。しかし、途中から、元荒川や綾瀬川が流れ込んでいるわけで大いなる流れとなって江戸湾に入る。そこで江戸湾に入る隅田川、江戸川の中間に位置しているというわけで、元の利根川の川路を中川と呼ぶようになった。そして将軍吉宗の時、東遷された利根川が氾濫を起こし、旧河床に流れ込み、被害を起こす事があったため(古利根川の悪水落とし)、吉宗は綾瀬川合流点までの流路を造る工事を一七二九年、井沢為永に命じた。散在していた池、沼をつなぎ合わせ、蛇行する流れとなったが、川幅は拡張され、氾濫を防ぐことができた。ともかく中川、綾瀬川経由の舟運は、大いに栄えた。広重の中川番所の絵には、木材の筏乗り運搬の姿が描かれている。 荒川の西遷 一方、嘗て旧利根川に接続していた大河川、荒川は、熊谷市久下で締め切られ、江戸湾に向かって南下。和田吉野川、市野川を吸収し、さらに西から流れてくる入間川を加え、最後は隅田川となって江戸湾に落とされる。これが荒川の西遷である。この付け替え工事は、一六二九年(寛永六年)に開始されている。埼玉県東部の新田開発や荒川を利用した舟運によって集まる物資も江戸を百万都市に押し上げることになる。工事責任者は、伊奈忠治である。 利根川の東遷工事は、一五九四年に始まり、一六六五年まで約七十年の歳月を費やすことになる。伊奈忠次に始まり、その子、忠治、孫の忠克―親子三代に渡る大工事であった。伊奈家は、代々、関東代官頭を引き継ぎ、この大変な工事をやり遂げる。処の神様的な存在である。 こうして、百万都市江戸を醸成する物資運搬の主要舟運路が整えられていったのである。