家康の大構想 一五九〇年、家康は江戸地に来て、その自然の風景に驚愕する。そこは、武蔵野台地と湿地帯。多くの河川が流れ込み、江戸湾が入り込んで迫っている。人が住めるところが少ない。環境的には、洪水の危険が常にある。しかし、美しい風景。この台地と水と湿地帯の世界をどのように切り開いていくか。それと、中核をなす江戸城の様子はどうか。家康から見ると、太田道灌以来の江戸城は、西国の堅固な城とは比べものにならず、海縁にへばりつく、貧弱な砦のような存在である。 しかし、ここから彼の大構想が展開される。理想的な大都市建設。それに沿って、以後七十年に亘る天下普請が始まる。家康に次ぐ、歴代の将軍、有能な家臣がこの大テーマに心を一つにして取り組み始めたのである。大都市、大江戸の姿を夢見て。 それは一言で言えば、台地を切り崩し、海を埋め立て、住む陸地を広げる作業であり、河川の流れを変え、大規模で、合理的な水の流通運搬路を創造することである。その上で、過去の歴史にない大型城郭の建設が待っている。 塩の運搬路 道三堀、日本橋川、小名木川、新川を造る まず、家康は、城建設には見向きもせず、家臣や全国から集まる人々のために、安定した食の確保を目指す。そして、当時の江戸城からは、全く遠くに存在している、関東最大の製塩地、行徳に目をつけ、ふんだんに塩を確保するルート造りから始める。この時代、塩は現在の石油にも匹敵する生活必需品。そこで日比谷入江の北端に流れ込む、平川河口から江戸前島の北部を掘削。これが、道三堀。繋げてそのまま、横一線に日本橋川を整備。隅田川へ出ると、眼前は、広大な湿地帯、深川。渡って、そのまま江戸湾に沿って、運河、小名木川を掘削。さらに中川を渡って新川を掘る。かくして、行徳から横一線で江戸に塩を運べる運搬路を完成させる。この人工の水路は、海よりもずっと安全で、安定的な輸送路となる。塩だけでなく、豊かな穀物の重要な輸送路。 道三堀を、江戸前島を今の新橋方向に掘削してできた外堀に繋げる。ここに平川流路からの水を入れる。 神田川の創設 慶長十年、隅田川と神田山まで神田川創設。江戸湾に流れ込んでいた石神井川を遮断し、神田川と繋げ、隅田川へ。さらに神田山を削り西へ延長。縦に流れる、平川、小石川を遮断し、神田川へ呼び込む。平川の一部流路を外堀に繋げる。神田川は、その先、水源、井の頭池、善福寺川合流の流れと結びつける。この川は、江戸核心部を守る、北の外堀の役目を果たし、大きな輸送路ともなった。 利根川の東遷 家康の見る目は、大きい。当時、板東太郎と呼ばれる、利根川本流は、銚子ではなく、江戸湾に流れ込んでいた。この本流を銚子に付け替える大工事を企画。一五九〇年、江戸に入った家康は、早くも一五九四年には、この大利根川の東遷事業に着手する。これが有名な利根川の「瀬替え」。この大工事は、六十年の歳月を要し、一六五四年に完了する。本流の関宿から江戸湾に注ぐ、支流を造り、江戸川とする。さらに、以前の江戸への流れ(古利根川)は、分脈化され中川となる。この大規模な利根川東遷事業の結果、江戸は、洪水から守られ、北関東に向けての、大外堀を得、北への水運路を獲得し、周辺は農作物肥沃地帯と化す。 汐留川、古川、目黒川の整備 溜池を通って日比谷入江に流れ込んでいた汐留川は、入江埋め立て地を掘削。南北の外堀と繋げ、浜離宮に流される。 増上寺南を流れる古川(江戸期:新堀川、赤羽川、澁谷川)は、家康入府時、大きな入江を形成していたが、これを埋め立て、河川と成して、増上寺を守り、西へ。 さらに南の目黒川は、品川湊を蛇行して入り、品川宿場町を造成する。南の玄関口とする。したがってここに本陣を敷設。さらに多摩川を江戸全体の南防衛ラインとして整備。 江戸城郭内に、牛ヶ渕(北の丸公園)と千鳥ヶ淵を造成し、その湧水を、城内の上水(飲料)として利用。 埋め立てと運河造り 江戸前島の東西の海を埋め立て まず、武蔵野台地を削り、日比谷入江を埋め立てる大工事(慶長十一〜十二年)に着手。家臣が住む、広大な敷地を確保(大手町、日比谷)。結果、江戸前島と一体化。今度は、江戸前島の東側の海を霊厳島まで埋め立て。そのまま南へ、鉄砲州、浜離宮に至る埋め立て地を造成。結果、家康入府時には、広い江戸湾に、ぽつりと浮かんでいた佃島は、鉄砲州の目と鼻の先にくる。この埋め立て地に自在に、堀・運河を造る。 大規模な江戸湾の埋め立ては、長い、東西塩の運搬路をそのまま江戸湾に向け進展。こうしてラインの東では、深川十万坪、六万坪(木場)を完成。広くなった、両国から深川の地に、縦横、運河を巡らせる。 かくして、水の都、江戸ができあがっていく。