江戸百万都市を醸成する舟運 ここにおもしろいデータがある。江戸の人々が食べる米の量を年間平均約一石(二俵半)とすると、百万人の胃袋を購うには四十万俵の米を江戸に輸送しなければならない。この膨大な量の米を運ぶためには、馬で輸送したら二十万頭、大八車だったら六万七千台を要する。しかし、馬の輸送は、荷崩れが起きやすく、手間がかかり、大八車は、農家の転出を防ぐため、目を光らせている藩が多い。しかも、主食の米は、秋の収穫から数ヶ月以内に江戸に運ばなければならない。 また、別のデータによると、一度の積載量は、馬二俵、大八車六俵に対して川船は小舟でも四十五俵、中船だと二百俵、大船だと三百五十俵も運べる。これらのデータをもってすれば、江戸百万都市を醸成するためには、河川の舟運流通が不可欠の要素であることが分かる。 家康は、大江戸造りの根本を舟運路の開発、整備。河川の全面利用に置いた。以後、彼は全国の大名にも領地での河川舟運工事の整備を命じているのである。 江戸の舟運の実態 川の水深によって積載量は異なる。例えば、利根川に浮かぶ大船は千二百俵も積み込むことができた。川は、一般に上流になると水深が浅くなる。そのため、荷を小舟に積み替える必要がある。そのため、川舟は、概して浅瀬でも喫水が浅く、船底が平らな細長い舟となっている。高瀬舟は、こうして生まれた。また、大船の場合、浅瀬に来ると、荷を小舟に小分けして、軽くし、喫水をあげるなどの工夫がなされた。したがって、同じ河川を各種タイプの舟が乗り継ぎで使われることになる。 さらに、順風の時には帆柱を立て、逆風の場合には、河川沿岸の土手より長い綱を持って曳く、いわゆる曳舟もあちこちの川で見られた。舟運には、このように川の水深次第で舟の乗り換え、積み替えが必要となる。しかし、陸上輸送に比べれば、はるかに経済的で効率よく、安全なため、河川舟運は飛躍的に発展したのである。 物流施設:河岸の発展 河川舟運路には、次第に物流施設ができていく。つまり、河岸である。これは今日の鉄道駅のようなもの。河岸とは荷物の積み降ろしの場だ。やがてここに大小様々な舟を手配、管理する舟問屋ができる。船持人、船頭、荷積み、荷揚げをする小揚、軽子などの人足などが集まる。 そして、物資を大量保管する蔵が立ち並ぶ。特に有力藩ともなれば、江戸に米を運ぶ場合、一旦、途中の蔵に保管しておき、必要に応じて江戸に舟運するため、中継基地を要する。そして荷物を商取引する問屋ができる。店が建ち並び、人が集まり、次第に商圏を形成するようになる。 河岸は、地理的には、舟の積み替えを要する、本流、支流の分岐点や陸上交通との接点、つまり街道筋との交接点に多く誕生する。 主要河川の河岸分布 1 利根川水系 利根川の東遷。渡良瀬川、鬼怒川の利根川への合流、関宿から行徳にいたる、江戸川の開通…これによって江戸への舟運ルートが完成。利根川自体、高崎から銚子に至るまでに二十九もの河岸ができる。下流では、布施、取手、佐原、笹川。どれもが地方の物産を集積し、江戸に運ぶために必要な基地。江戸に行く荷は、基本的に江戸川を下る。分岐点にある関宿と向かいの境河岸は重要な河岸となる。荷物は、江戸川を下って、行徳から小名木川を西に。さらに隅田川を渡り、日本橋川経由で江戸城中枢部に運ばれる。 2 渡良瀬川、鬼怒川の河岸 渡良瀬川の河岸は、上流の猿田から利根川に入るまで五つある。途中、巴波川、恩川が合流するが、これらの川に六河岸。渡良瀬川の東を流れる、鬼怒川には上流にある、有名な阿久津河岸から利根川に至るまで九つの河岸が誕生。繁栄した。 図1 利根川水系の主要河岸 3 霞ヶ浦舟運 霞ヶ浦、北浦の広大な湖は、舟運航路としても活用された。例えば、水戸藩は那珂湊から涸沼川を下り、一度は陸上輸送になるが、すぐに霞ヶ浦舟運を使い、南に下って、常陸利根川経由で利根川本流に繋げる輸送。途中、河岸として栄えた潮来には、各藩の蔵が並ぶ。また、海の東回路が開発されてからは、銚子湊から入る利根川利用も増えた。 関東、東北から江戸への主な下り物には、米、大豆、青苧(高級織物の糸)、紅花、紙、煙草、蝋、木綿、醤油、酒、蓮根、水油、油粕、石炭、大麦、麻、板、砥石などが上げられる。逆に上り物には加工製品が多い。 4 中川の舟運 隅田川と江戸川の中間を流れる中川も重要な舟運路であった。広重が描く「中川番所」の絵に、材木の筏組を巧みに操る筏師の姿が描かれている。材木は、深川の木場に直送されるのだろう。中川には、綾瀬川、元荒川が合流してくるので、材木、農産物などの地域運搬が活況を呈す。 5 荒川の舟運 荒川が西遷され、秩父の山間部から、長瀞、寄居を通過。熊谷から江戸湾に向かって南下。途中、高麗川と新河岸川が加わり、隅田川に直結するようになると、水量も増し、江戸への重要な舟運路となった。結果、荒川には、川口、千住、浅草に至るまで多数の河岸が誕生する。荒川舟運の江戸へ送られる物資は、米、炭、味噌、醤油、薪、小麦粉など農産物が多いが、「木ノ川」と呼ばれるくらい木材が運ばれた。奥秩父の山林から杉や松、高麗川からは杉、檜。これを筏に組み立てて流す、いわゆる筏流しで江戸に輸送。河岸が沢山でき、物資の取引が活発になると、地方の特産物生産も活発化する。秩父の絹織物、狭山の茶。平賀源内も筏流しや薪炭の荒川舟運路開発に貢献している。 6 新河岸川舟運 川越藩領主は松平信綱(知恵伊豆と称される)であるから、川越と江戸を結ぶ、新河岸川舟運に力を入れた。このため川越の仙波河岸から和光の新倉河岸までびっしり河岸が並ぶ。川の両側には蔵が建ち並び、米、麦、さつまいもなどの農産物が江戸に送られた。 7 多摩川の筏流し 奥多摩、檜原村。豊富な檜、杉。木材は、多摩川源流に鉄砲堰を造って押し流し、青梅で筏に組まれ、筏師のさばきで多摩川の流れに乗って羽田まで運んだ。 江戸中枢部の河岸 舟運路を織り込み済みで江戸湾に向かって計画的に埋め立て造成していった江戸の中枢部には、河岸が集中しており、主な河岸だけでも七十三カ所に及ぶ。河川から海からやってきた物資は、大型船から中型、小舟に分けられ、入り込んだ運河のあちこちにある河岸から陸揚げされた。隅田川河口から豊洲橋を潜って日本橋川に入る。するとすぐ新堀河岸。続いて行徳河岸(塩など行徳からの物資扱い)。茅場河岸。その先は、掘留に向けて米河岸。左折して楓川を行けば、材木河岸(ここが江戸初期の材木集積地)。まっすぐ行けば、日本橋の魚河岸。その向かいは蔵が建ち並ぶ四日市河岸。先に進んで外堀に行けば、鎌倉河岸。鎌倉河岸は、江戸城建設の石材を鎌倉から運んだためについた名。京橋川に入ると竹が立ち並ぶ竹河岸。隅田川から神田川に向かって浜町川を行けば浜町河岸。神田川の両側はお茶の水を越えても河岸だらけである。道三堀から内堀に行けば八代州河岸(八重洲)。三十間川汐留橋から幸い橋に行けば、芝口河岸。古川から入れば、金杉河岸を始め、ずらりと河岸が並ぶ。 図2:江戸中枢部、江戸湊の河岸:七十三カ所にも及ぶ。:出典:鈴木理生「江戸・東京の川と水辺の事典」柏書房 大阪〜江戸の海運 大阪から江戸に送り込まれる生活物資量(木綿、油、酒、酢、湯浅醤油など)は膨大であった。活躍したのは大型の菱垣廻船(荷物が落ちぬように船の両側に菱形の垣立て)。元禄の頃には千二百〜千三百隻が就航。隅田川河口沖に停泊し荷物を中船、小舟に分ける。 菱垣廻船は、一隻分の広範囲の荷を集めるのに時間がかかるため、急ぐ酒や醤油専用の船ができる。それが、樽廻船。日本橋川下の新川沖に停泊。新川の新堀河岸、稲荷河岸には酒問屋が集中。ここから江戸各所に舟運された。新川地区は、下り酒が届くと、お祭り騒ぎであった。 図3:江戸名所図会:新川酒問屋:当時の河岸の様子がよく分かる。