完成された江戸の川 江戸湾に流れ込む多くの河川を付け替え、有効活用。埋立てによって広げた土地を掘削し、堀、運河を造る。これが江戸城を中核に網の目のように広がっている。最初に掘削した道三堀、日本橋川に平川水系を繋げ外堀を掘削。そこから竜閑川、浜町川を掘削。大川(隅田川)に繋げる。日本橋川から南に、楓川、紅葉川、三十間堀を掘削。神田川、江戸川の流れを西側の外堀に。溜池に繋げ、浜御殿を囲むように汐留川として江戸湾に流す。このようにして、正に網の目のような運河が完成する。これは同時に、江戸湾、大川(隅田川)からいくらでも荷物を運び入れられる、水の輸送路の完成を意味する。結果的に、今の銀座、築地界隈は、東洋のヴェニスと形容されるほどの水の都になる。 広大な埋め立て地、両国、深川一帯には、縦に大横川、横十間川(江戸城から見て横に位置)、横に竪川、小名木川、仙台堀川、油堀、十五間川、大島川などが掘削され、壮大な碁盤状輸送路が完成する。 江戸中核部周囲の流れ 江戸中核部を囲む、水系は、ざっと以下の通り。利根川水系、荒川水系、新河岸川水系、入間川水系、石神井川水系、神田川水系、古川水系、目黒川水系、呑み川水系、多摩川水系・・・といった案配。 この他に、江戸には幾つもの池があり、そこから湧き出た水が川となって、田畑を潤し、主河川に注ぎ込まれている。井の頭池からの神田上水、しかり。立会川は、碑文谷池から。それだけでなく、江戸近郊各所から、湧き出た水が小川となって、網の目のように流れていた。例えば、呑み川は、桜新町辺りを水源としている。羅漢川も目黒通り清水町辺りを水源としている。こうして、今では考えられぬほど、そこ、かしこに小川が流れていたのである。 江戸の河岸 江戸の運河には、無数といって良いほどの河岸が造られていた。むしろ河岸だらけと言って良いほどである。多くは大名のための河岸であったが、江戸町民のための河岸もあった。日本橋川の魚河岸、外堀の鎌倉河岸、八重洲河岸など。これらは、荷物や人の集積地であり、市場も形成する。 上水、下水道の完備 大きな屋敷の周囲は、例外なく、小川で囲まれている。それらは、堀であり、下水路である。例えば、増上寺門前を囲む櫻川、しかり。ここで、上水、下水道を語らねばならない。 「江戸っ子は水道の水で産湯を使い」。江戸っ子の自慢。急激に人工が膨れあがった江戸では、飲料水の確保が重要な課題であった。というのも、中核部は海の埋め立て地で、井戸を掘っても塩分混じりの水が上がってしまい、とても飲めない。そこで清冽な川の水を引いて、市中には樋(木製水道管)を埋め、市中隅々まで配った。この飲料水を上水という。長屋の井戸も上水を溜め、汲み上げたものである。貯まるまで少し時間がかかるので、この間、長屋の女将さん達が井戸の周りで世間話をする。「井戸端会議」の始まりである。 一五九〇年には、早くも、小石川上水(後の神田上水)の工事が始まる。次に多摩川羽村から上水道を引いて四谷の木戸から市中に樋を引く、玉川上水の敷設。明暦の大火後には、本所上水、ヨ山上水、三田上水、千川上水が加わる。これらを江戸の六上水という。 上水(水道水)といっても、湧き水を引いたもの。飲料水に耐える、十分に清冽な水であった。神田上水は、井の頭池からの湧き水を引き、関口から江戸川と別れ、水戸御殿内を通り、水道橋から木樋で市中に配給。玉川上水は四谷の大木戸から地中木樋配送。一般の川と上水道の違いは、異物が混入しないように、厳格に管理されているところ。上水道の所々に高札が立ち、「水浴禁止、ごみ捨て禁止、洗濯禁止、魚鳥捕獲禁止」が告知されている。違反者には厳罰が処される。 江戸郊外の住民は、近くに流れる、清らかな川の水で野菜を洗い、洗濯。化学物混入汚染がないので、きれいなもの。湧き水は飲料水。海の埋め立て地と異なり、井戸が掘れる。 下水道を同時完備 水の町、江戸造りの凄いところは、上水路と同時に、使用後の下水路を完備したところにある。下水。つまり生活排水と雨水だが、し尿の混入は、全くないので、昔はあまり汚れていない。きれいなものである。し尿処理は、別ルート。農家が肥料として引き取りに来る。これは、長屋の大家にとって、大事な収入源でもあった。長屋の生活排水は、表通りの溝に流される。これを割下水という。雨水の水はけにも利用される。昔の「どぶ」であり、処によっては、蓋がかぶされている。それが大道の中央を走る大きな割下水道に集められ、河川を通じ最後は、海に放出される。本所、両国の北割下水、南割下水は広い道の中央を走る、この大きな下水路である。上水路とは別に、こうした専用下水路を完備したのは、江戸が世界最初ではなかろうか。 江戸の川とは、天然の流れ、掘削運河(堀)、上水路、下水路。これらが織りなす景色であった。