船と河岸 江戸は瞬く間に百万都市となる。江戸城を中心に無数に織りなす河川。単に人口数で言えば、世界一の大都市である。これらの人々の生活を購う、食料、物資を配給する、最大の輸送手段が河川であった。 江戸名所図会の日本橋。橋の下を無数とも言える、船が走っている。ひしめき合ってという感じ。多くは荷を積んだ高瀬船、茶船だが、客を乗せた屋形船、猪牙船も混じっている。大半は、城に近い一石橋方向に向かっているが、そこかしこに在る河岸に横付けせんとする船も在る。魚河岸に着いた船から魚介類を下ろし、桟橋の上で運ぶ人達。 まさに船の文化である。まず、大阪、紀州、尾張など遠方からの海上輸送では、大型帆船のいわゆる千石船、菱垣廻船(弁才船)が活躍。河川舟運としては、中型船、小型船が使われた。中型船の代表例としては、平田船(修羅船)、五大力船などで、主として利根川とか荒川水系の大きな主要河川で運搬に活躍。例えば、利根川関宿(野田)から江戸川を下り、中川船番所まで年貢米などを運ぶとか、川越と江戸へ、物資を運ぶなどで運用。あるいは、江戸近郊の相模、安房、伊豆などから、大川(隅田川)などの主要河川に入るなどにも使われている。屋形舟は、中型船に入る。今日でもお馴染みの屋根付き遊覧船で、数は少ないが、町人だけでなく、大名、武家も使用。単に屋根船とも称した。 活躍する小型船 しかし、何といっても江戸の中心部、堀を含めた複雑な掘削河川で活躍したのは、小型船の高瀬舟、茶舟などで、高瀬舟は、いかなる高瀬(浅瀬)でも通れるように底を平たくし頑丈に造られている。森鴎外の小説にも登場する。これらの小型船は、全国の半分に相当する一万隻近い数の舟が江戸市中で動いていたという。 小型船といっても、用途別に荷足船、釣船、猟船、伝馬船(艀船、本船と岸を往復)、肥船、猪牙舟といろいろある。荷足船は、少人数の客や荷物を運送する小舟で米百二十石まで積めたという。茶舟はこれら小舟の総称のようなもので、荷物、人輸送の他、飲食物を売る、俗称うろうろ舟としても使われたので、ついた名称。 猪牙舟は、池波正太郎の「鬼平犯科帳」、「剣客商売」、落語の「船徳」などでお馴染みの江戸っ子の足、川のタクシーであった。先端が尖っている快速艇で、結構、揺れが激しかった。「猪牙でせっせと行くのは深川通い」、「柳橋から舟はゆらゆら波まかせ、舟から上がって土手八丁。吉原へご案内」などの俗曲は、猪牙に乗って、遊里へ赴く江戸っ子の姿を唄っている。 この他に、特殊な用途の船がある。水舟、湯舟などである。水舟は、上水の余り水や掘り抜き井戸の水を売り回る専用船。上水の恩恵が受けられない、深川、亀戸では特に珍重された。 湯舟は、船に浴室を据え、湯銭を取って、入浴させる風呂船で水辺に暮らす人達が重宝した。浴槽をゆぶねというのはここからきた。 曳き舟は、川に舟を浮かべ、人が川沿いを歩いて、綱で引っ張る。この方法は、特に川幅の狭い上流か運河で使われた。広重の「四ツ木通用水曳き舟」は有名。東武伊勢佐木線の曳舟駅は、その名の起こり。小舟に二人ずつ乗って曳かれている。 ■1 広重「四ツ木通用水曳き舟」 流通の拠点、河岸 河岸とは、船着場のこと。荷物や人を下ろす場所。大半は、簡素な船着場だが、なかには倉庫が林立し、流通センターとなっている場合もある(日本橋川、西河岸)。魚河岸や鎌倉河岸のように大きな市場に発展し、最早、地名と化している場合もある。 江戸市中、河川図に主な河岸をマーク記入すると、その多さに気づく。なんとその数の多いこと。正確には、江戸中心部と深川で百四十一ある。河岸とは、町民用の船着場のことをいう。それに対して、大名、武家の船着場は、物揚場と称し、区別されていた。これも当然、相当数あったから、正に船着場だらけと言って良い。これこそ、江戸の物流の原点であり、運搬路として市中の河川がいかに利用されていたかを物語るものである。河岸、物揚場は、江戸の経済活況の元であった。 ■2 江戸の河岸 【参考文献】 鈴木理生著「江戸・東京の川と水辺の辞典」(柏書房)、「江戸の川東京の川」(井上書院)など。