霊岸島 江戸市中に張り巡らされた運河、河川の景色を江戸時代人になって、船旅しながら、リアルに再現する。その第一歩が、隅田川(大川)が江戸湾に流れ込む処。海を渡って方々から運ばれてきた物資を江戸市中に送り込む重要拠点、江戸の玄関口。霊岸島近辺の運河描写から始めよう。 ■1 霊岸島運河図 海に突き出た霊岸島は、無論、埋め立て地である。一五九〇年、家康が江戸にやってきたときには、潮に洗われ、葦が顔を出しているような沼地のような浅瀬状態であった。潮が満ちれば、海中に没する。ここを埋め立て江戸の玄関口とする、土地開発が始まる。その第一歩は、この地に一六二四年、浄土宗雄誉霊厳上人が霊巌寺を創建したことにある。彼はこの地の埋め立て、土地整備事業に邁進する。続いて、一六三五年、同寺の南方に越前福井藩主松平忠昌が二万七千坪の浜屋敷を拝領する。霊岸島の体裁が調う。霊巌寺は、浄土宗十八檀林の一つ。しかし、一六五七年の明暦の大火で全焼してしまう。そこで現在の深川に移転することになるが、霊岸島という地名となって残る。 霊岸島は、大きな運河に囲まれている。日本橋川が江戸城の北側から流れ下って、二手に分かれ、島を囲んで、隅田川に注いでいる。西南の越前堀(亀島川)、北の霊岸島新堀(日本橋川)。松平越前の蔵屋敷の周囲は、石垣を巡らし、海鼠塀に囲まれていたので、人々はいつしか、越前堀と呼ぶようになる。ほぼ中央、島を割るように新川が東西に流れている。この川の北側に霊岸寺が在ったので日本橋川本流の河口を霊岸島新堀と呼ぶ。それぞれの隅田川接点に向井将監組屋敷や船手番所があり、荷の検閲、海からの侵入から江戸を守っている。 江戸湾から入る 大きな檜垣廻船や樽廻船が帆をなびかせて、広い海の中央に浮かぶ、佃島、石川島の脇を通過すると、左に鉄砲州の湊河岸が見え、角地が湊稲荷の社。海に面して人工の鉄砲州富士(富士山信仰)が見える。その真向かいに船見番所。灯台、常夜灯が立ち、番所に続いて向井将監組屋敷と将監河岸が続く。高橋を潜ると、越前堀で、鉄砲州富士の稲荷橋を左に潜って行けば、八丁堀である。すなわち、大型船は、霊岸島南端に待機、停泊し、ここで荷を川船の茶舟(荷物船)に移し、越前堀、八丁堀、霊岸島新堀を通り、市中に搬送する。 ■3 江戸名所図会 長谷川雪旦:湊稲荷社:右、大型船が停泊。中央下湊稲荷と富士。左下稲荷橋、中央突端に灯台、船見番所。左へ将監組屋敷、将監河岸、高橋へと続く。絵の左上に永代橋が見える。 向井将監 向井将監とは、向井忠勝のこと。父の向井正綱は、家康の忠臣で、徳川水軍の将を経て御船手奉行になる。大阪の陣でも大活躍。その子、忠勝は、二代秀忠の信頼も厚く、卓越した造船技術を発揮。父親に続いて、江戸の海防に務め、六千石の大身旗本になり、将監と名乗る。以来、十一代にわたり、幕府滅亡まで代々「向井将監」を世襲。 越前堀(亀島川) 荷を積んで高橋を潜ると、右、将監河岸、左日比谷河岸が続く。ほどなく前方に亀島橋が見えてくる。ここを潜って霊岸島西側を回り込むと左は亀島河岸、右の霊岸島側は富島町の町並み。やがて霊岸橋について、日本橋川本流に入る。越前堀左側一帯は、時代劇で有名な、八丁堀同心と与力の組屋敷が密集。また、この辺一帯は、医師、儒者、学者、兵法家、歌人、絵師、能楽師など特殊な職業の家宅が多い。 新川 霊岸橋に出る前、右手側に新川が流れている。これを曲がると、一の橋、二の橋、三の橋と三本の橋があり、大川に出る。 新川を掘削したのは、河村瑞賢。江戸時代初期の政商である。彼は、十三歳の時、江戸に出て、やがて土木工事、材木屋を経営。明暦の大火後の事業で財を成し、新川を掘削する。晩年、霊厳寺の跡地に居を構え、酒の問屋街を造る。彼は単なる儲け主義の事業家ではなく、江戸幕府のために数々の航路を開拓し、治山、治水工事、灌漑、鉱山採掘、築港、開港事業などに貢献する。その業績をもって、新井白石は「天下に並ぶ者がない富商」と賞賛。幕府は、多大の功績を認め、一介の商人から旗本に取り立てる。 霊巌寺移転後に建てられた、瑞賢の屋敷は、新川一の橋から日本橋川まで在ったといわれ、その右側一帯が酒の問屋街であった。大型の樽廻船で運ばれてきた酒樽は、小舟に積み替えられ、大川沿いの新川三の橋を潜り、問屋の倉庫に入る。いわゆる関西からの下り酒。最上級である。酒樽はここから江戸市中に搬送される。酒は江戸の民にとっては飲料水のようなもの。剣菱、月桂冠など関西からの下り物と讃えられ、ここから俗に「下らない」(価値がない)という表現が生まれる。江戸で消費される下り酒の総量は元禄期六十四万樽、酒問屋商人百二十六人(軒)。関西からの下り酒は富士を見ながら揺られ、香りがつく。ために「富士見酒」とも呼ばれた。秋酒荷一番船が到着すると、印半纏を着た若者が、町を練り歩き、その様子は、まるで祭りのよう。かくて新川は、江戸の名所となる。戦災を受けてから間もない昭和二十三年、新川は埋め立てられ、今は地名としてのみ残っている。 ■3 江戸名所図会 新川の賑わい。酒樽を積んだ川船が江戸市中に向けて発進。