■1 日本橋川 日本橋川 大川(隅田川)、霊岸島の前に数隻の大型船が停泊している。荷を川船に積み替えている。辺りを見回すと、左に霊岸島、右に深川佐賀町、相川町の町並み。眼前に長さ百二十間余の永代橋が聳えている。橋の上には、大勢の人々が歩く姿。なかには、中央で遠方の景色に見とれている人もいる。西に富士山、北に筑波山、南に箱根連山、東に安房上総が一望できる。 永代橋 永代橋は、元禄十一年(一六九八)、五代綱吉の五十歳を祝して建造された。この橋は、深川房総と江戸中枢部を結ぶ重要な架け橋で、大川河口に浮かぶ、最大級の大橋。その名は、深川佐賀町一帯が、昔、永代島と呼ばれていたところからとか、そこにあった広大な巨刹、永代寺からとった、あるいは、幕府の永代存続を願って建設…などの諸説がある。また、赤穂浪士が吉良上野介の首を掲げて、この橋を渡った逸話で、江戸っ子にとっては、自慢の大橋である。 ■2 江戸名所図会 永代橋図 右が深川、左が船番所と日本橋川、豊海橋。 この橋も長い年月の間に、落橋事故を起こしている。最大の悲劇は、深川富岡八幡宮の祭礼事故。御輿を担いだ大群衆の重みに耐えきれず、落橋。死者一千四百人。大事故である。大田南畝の狂歌「永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼」。一八〇七年九月の出来事であった。しかし、橋は、すぐに、架設、補強された。 御船手番所 永代橋の西口は直接、御船手番所に繋がっている。ここで荷は改められ、通行税を徴収。番所の右隣に高尾稲荷がある。吉原で最も有名だった、二代目高尾太夫を祭る稲荷である。舟は番所に隣接する、豊海橋を潜る。この辺り、文字通り、日本橋川の河口域。霊岸島新堀に入る。周囲は、船でごった返している。両岸には、蔵が続き、湊橋に来ると、右手は、箱崎町の家並みに変わる。そこは、広い、川の三叉路。左、霊岸橋(越前堀)。右、崩橋(箱崎町から大川へ)が見える。崩橋を渡ると、行徳河岸。大川(隅田川)、小名木川を経て、行徳に達する、塩運搬ルートの出発点。大勢の人がここに集まり、小名木川の観光ルートを楽しむ。 行徳河岸を過ぎると、左手、茅場河岸が広がっている。河岸の向こうには、茅場町の家並みと、与力、同心の家宅が八丁堀まで続いている。河岸の裏手にあるのが、有名な山王旅所。江戸三大祭り、赤坂山王祭には、巨大な山車や御輿がここまで旅する。その行列が凄い。武士も町民も一緒で、ここまで町中が人で埋まる。 鎧の渡し 茅場河岸の終わりに、有名な「鎧の渡し」がある。川の左右、蔵と蔵の間を、客を乗せた定期便が行き交っている。北斎も広重もこの場を描く。その昔、ここで源頼義が東北遠征の際、暴風に遭い、川は、荒れ狂う。そこで兜を沈め、龍神に祈ると、風雨が止み、無事川を渡れたとの故事にちなむ。いつしか、人々は、この辺りを「鎧が淵」と呼ぶようになった。 ■3 江戸名所図会 鎧の渡し。客を乗せた舟が対岸の小網町鎧河岸の蔵地に向かう。 掘留川 鎧の渡しを過ぎると、川幅はさらに広がり、左前方に江戸橋が姿を現す。右に東掘留川が見える。ここに思案橋、親父橋が架かっている。人形町にあった旧吉原遊郭に通う客が、行くか行くまいか、思案をした橋。次の親父橋とは、遊郭を造った、庄司甚右衛門を讃える橋。一六一二年当時、この辺り、一帯は、葦の繁る沼地であった(人形町一帯)。そこからついた名、葭原(よしのはら)(吉原)。 江戸橋のすぐ右側に。西掘留川。東西二本の川が並行して北に流れ、行き止まり、コの字を形成している。ここが江戸でも有名な掘留。堀の周囲は、米河岸、材木河岸の賑わい。江戸の米相場はここで決まる。無数といえるほどの小舟がひしめいている。 楓川 江戸橋の左側に、楓川が合流する。この川は、南の八丁堀に繋がっており、両岸には、江戸城を初め、江戸の町作りに大きく貢献した、材木問屋がひしめいていた。材木が林立する、材木河岸。深川木場に移るまでここが本拠地で、本材木町一〜八丁目の地名として残る。 日本橋川に無数の船が行き交う、江戸橋を潜ると、左手、木更津河岸。その裏には、江戸橋広小路があり、大勢の人が行き交い、四日市の蔵と家並みが広がる。 ■4 江戸名所図会 四日市の賑わい 下、日本橋川、江戸橋。中央広小路 日本橋 そして、右手に、魚河岸が見えてくる。ここでは、魚の荷下ろしが絶え間なく続き、威勢の良い競り声が飛び交う。言うまでもなく江戸庶民の台所。初めて江戸に来た、異国人もこの光景には、驚嘆。とりわけ、大きな生け簀を見て、驚愕したという。魚は見る間にさばかれ、売られていく。 日本橋については今更言うまでもない。長さ二十七間、全ての幹線道路の起点である。橋の上から、前方、一石橋を眺めると、大名屋敷が連なり、江戸城の威風。その背後に富士山が聳えている。なんとも絵になる光景。 ■5 広重:日本橋雪晴 八見橋 一石橋までは、両岸ともに蔵、蔵、蔵。蔵がずらりと並ぶ。一石橋を抜けると、人々は、もう御堀と呼ぶ。長谷川雪旦の「八見橋」が描き出す、壮観な運河の交差点。左、呉服橋。正面、銭瓶橋から道三堀、右、常磐橋。旧平川の、幾筋もの流れをまとめ、道三堀を掘削し、日本橋川へと繋げた、一五九〇年、家康江戸入府後最初の大工事の現場である。八見橋とは、この近辺の眺望に捉えられる八つの橋で、一石橋、常磐橋、銭瓶橋、道三橋、呉服橋、日本橋、江戸橋、鍛冶橋のこと。文字通り、江戸の中枢である。 ■6 江戸名所図会 八見橋 中央左右日本橋川。左一石橋、右銭瓶橋。交差して左上から右下へ、左呉服橋、右常磐橋 日本橋川は、常盤橋を潜り北上。左岸は、城壁で、右手には金座(金貨製造、日本銀行)が見える。ちょっと行くと、右手に龍関橋と細長い龍関川。川を夾み、南が本石町、駿河町(三井越後屋)、北は、鍛冶町、紺屋町などの職人町。正に、江戸町民のメッカである。右、龍関橋から先が有名な鎌倉河岸である。江戸初期、城の建設資材を三浦半島から取り寄せた。その最初の材木河岸がその名にちなんだ鎌倉河岸である。すなわち江戸にできた最初の河岸といって良い。ここにできた酒問屋、豊島屋の白酒は、江戸っ子が集まって、あっという間になくなってしまうほどの盛況を見せた。さながら、江戸っ子がこぞって集う広場であったわけだ。 左、城壁を見ながら、ずっと進むと、神田橋御門を潜る。右手、広大な護持院ヶ原の明地。左、城の中は一橋慶喜の本屋敷。一橋御門を潜り、 舟をさらに走らせると、右手、明地が終わり、そこに雉子橋。ここから先、日本橋川はぐんと細くなり、飯田川に転じる。ほどなく、九段坂に架かる小さな俎橋。川はさらに狭まり、元飯田町掘留となり、大目付、柳生播磨守の居屋敷(幕臣の本邸)のところで本当の掘留となる(明治になって、流路は神田川まで掘削される)。これが、平川流路を替えて造った運河、江戸の大動脈、日本橋川周辺の光景である。