築地川 ■1 築地川 三十間堀と並んで江戸の運河を代表する川が築地川である。江戸の造成埋め立てが進み、江戸湾に向かって次々と陸地が形成され、今や孤島であった佃島に迫る勢いである。明暦の大火後、江戸湾に向かって、埋め立て工事が始まり、箱形の大きな出島のような陸地が形成されていった。人々は、この地を築地と呼ぶ。江戸後期には、大名、武士や町民の住まいがびっしり。この築地四区画を囲む運河が築地川である。 家康の頃は、東海道から先は江戸湾であった。それが江戸後期には、今の築地市場にまで、湾岸が伸び、明治になると、佃島から下方に伸びた月島が形成され、現代になると、さらにその下に晴海が形成され、これにとどまらず、さらにその南に豊洲ができている。 築地本願寺 そもそも築地の埋め立ての原動力となったのが、本願寺の再建である。一六一七年、京都西本願寺の別院として浅草御門南に建立(横山町)。しかし、一六五七年、明暦の大火で消失。そこで、佃島門徒を中心に本堂再建のため海の埋め立てが発願される。この埋め立て工事の結果が、築地と称される由縁である。 こうした動きは、霊厳寺と霊岸島の関係にも見られる。そして再建なった本堂の豪壮なこと。当時、比類ない高さを誇り、その姿は、築地のどこからでも拝めた。 広重は、大川から描く。本堂は、絵の正面にでんと聳えている。さらに、広重は、遠く赤羽川金杉橋辺りから築地方面を描いているが、ごく小さく描かれているもののそれと分かる。このように本願寺の本堂は、海を行く船頭にとって重要な目印になっていたと思われる。 ■2 広重 築地本願寺 大川からの図 手前の岸壁は明石町 ■3 広重 金杉橋からの図 ほぼ中央左に小さく描かれているのが築地。その中で一際高いのが本願寺本堂 相引橋(三吉橋) 築地川は、川と言うよりも運河である。明暦の大火後に始まった、埋め立て地、新区画の周囲の海を残し、造成された水路、といった方が適切である。 この一画の北よりの角に相引橋が架かっている。潮の干満の分岐点であるところから、ついた名。今の東銀座三吉橋交差点が、その場所。目の前に中央区役所があり、その後ろに築地警察がある。江戸時代、この辺り、六千六百坪は、土佐高知藩、山内容堂二十四万石の下屋敷であった。 昭和四十年代、三吉橋交差点に立って、中央区役所を見る。右を見ると、首都高環状線が川底を走り、その上に公園があり、万年橋交差点に達する。左を見ると地下鉄新富町駅方面。区役所沿いに大きくえぐられた空き地があった。これが築地川の跡である。江戸時代、新富方面から流れてきた水が今の区役所前でくの字に曲がり、万年橋方向に流れていた川。つまり、相引橋(三吉橋交差点)は、築地一帯を囲む築地川と京橋寄りの、北の陸地をつなぐ橋であった。橋寄りの、北の陸地をつなぐ橋であった。 中央区役所が土佐藩の下屋敷。ということは、ここに住まいしていた、坂本龍馬は、相引橋を渡って、京橋を抜け、鍛冶橋の桶町にあった、千葉道場に通っていたわけである。 相引橋から万年橋方向に舟を走らせる。右は各藩の下屋敷、中屋敷の練り塀、左岸は、寄合など御家人の家宅が並ぶ。やがて万年橋にでる。右が采女原馬場(その前が現在の歌舞伎座)。さらに行くと二の橋が架かっている(今の新橋演舞場辺り)。築地川はここを左に折れる。すると、三の橋。左側、御家人の家宅に続いて、築地本願寺と子院の群れが展開。その南の角地にある、本願寺橋を左に見て、さらに舟を運ぶと波除稲荷が見え、幕末の攘夷に備え、武術鍛錬を行った、講武所があり(安政三年開所)、江戸湾に出る。三の橋から海までの右側一帯は、一橋慶喜や松平越中守の下屋敷や拝領屋敷で、ここが現在の築地市場である。 新富座 今度は、相引橋を左に行ってみる。右が山之内容堂の下屋敷、左側が、本田隠岐守六万石の上屋敷(新富一、二丁目)。明治になって新富座ができて、大層な賑わいを見せたところである。 明治八年(一八七五)、木挽町に在った、守田座がここに移転。座主は、十二代目守田勘弥。明治十一年には近代劇場に生まれ変わる。大々的な開場式を行い、三条実美を始め、各国公使を招待。西洋劇の他、九代目市川團十郎の活歴を行うなど、明治期の演劇改良運動のメッカとなる。大変な賑わいを見せたが、関東大震災で焼失。消滅した。今は、京橋税務署などが建っている。 ■4 新富座の賑わい 中津藩中屋敷(明石町) 左、隠岐守や井伊直弼の蔵屋敷を過ぎると、築地川は、御家人家宅に沿って、右に曲がる。その角に架かるのが軽子橋。潜って舟を滑らせると、左は、豊後岡藩の上屋敷。その南、鉄砲州に豊前中津藩奥平の中屋敷がある。今の聖路加病院。中津藩士、福沢諭吉は、ここで塾を担当。そこで、この地が「慶應義塾発祥の地」となる。築地川をさらに下ると、やがて備前橋に出る(ここまで築地川公園)。やがて右手に本願寺が見え、先ほどの本願寺橋に出る。潜って左に行けば、波除稲荷、講武所そして江戸湾である。この築地区画をぐるりと巡る川が築地川と呼ばれていたのである。 さらに、浜御殿に沿って大川に流れる川も、後年、築地川と呼ばれるようになった。二の橋(新橋演舞場脇)から浜御殿に向かって船を進める。左右には、小大名の上屋敷、中屋敷があり、仙台橋に着く(築地市場駅付近)。左岸に見える、小大名の屋敷は、明治期、海軍兵学校、海軍大学などの敷地となり、現在は、がんセンターや朝日新聞社が建っている。さらに南の海までが築地市場である。 そして、船は、浜御殿に到達。仙台橋から浜御殿までの左側一帯、海までが尾張中納言の蔵屋敷で今は主に築地市場である。このルートは、浜御殿と尾張の蔵屋敷の間を通って、江戸湾に出る。すなわち、浜御殿にぶつかると、右側から来る御堀、汐留川と交差し、浜御殿沿いに海に注ぐ。 無論、築地川は、江戸の重要な物資運搬ルートであった。