■1 古川水系 古川水系(赤羽川、新堀川、金杉川、渋谷川など) 家康が江戸に入府した一五九〇年頃、古川水系の河口、すなわち江戸湾に注ぐ、金杉橋、将監橋辺りは、大きな入り江であった(古川入り江)。そして、長い時間をかけて、洪水、鉄砲水などで海に押し流された土砂が赤羽の州を生んでいた。幕府は、これを土台に、海に向かって埋立を進め、やがて、芝金杉、浜松町などの町が形成される。町中を南北に東海道が通り、江戸湾沿いには、防備を兼ねて武家屋敷を配置。古川入り江は、全く姿を変えることになった。 ■2 家康入府時(一五九〇年)の古川入り江 水源を内藤屋敷(新宿御苑)辺りとする古川は、各所の湧水池から流れ込む小川を合わせて、江戸湾に流れ込んでいたが、全体に細い流れであった。しかし、一六七五年には、芝金杉の海岸から麻布十番辺りまで川幅と水深を広げ、通船が可能となる。そこで処の人々は、河口部の赤羽川(金杉川)のことを新堀川とも呼ぶようになった。 さあ、そこで舟に乗って江戸湾から上流に向かって出発。江戸湾に面する、陸奥二本松藩、丹波左京太夫の蔵屋敷と会津藩・松平容保の下屋敷の間を縫って古川(赤羽川)に入る。左右の岸は、湊町や芝金杉町の町並み。そして東海道に架かる金杉橋を潜る。この辺り、江戸時代の典型的な港町の風情。帆船が一杯停泊している。芝金杉同朋町を経て、将監橋(江戸湾を守る向井将監にちなむ)に到着。 ■3 広重:金杉橋から江戸湾を望む さて、ここから赤羽川の様子はがらりと変わる。広重は次の赤羽橋に向かって川の様子を描いているが、深い緑の堤に覆われた、正に渓谷の観。何艘もの舟が行き交う。将監橋を潜ると右手から櫻川(愛宕神社の前を通り増上寺を囲む)が流れ込んでいる。ここから赤羽橋までの北側は、全て徳川家の菩提寺、増上寺である(約二十万坪)。各所に船荷の揚場があり、ほどなく赤羽橋に到着。 ■4 広重:赤羽川「増上寺五重塔、赤羽橋」絵の左:久留米藩有馬上屋敷 赤羽橋は、交通の要衝に架かる橋で、江戸では、その名を聞けば、場所が想像できる知名度。東海道の札の辻から分岐してきた道が、この橋を渡り、虎ノ門方面に向かう。橋の北側に広小路があり、大勢の人が歩いている。そこで幕府からの御触れを告げる、高札が立っている。そこは、増上寺の裏門で、入ると、時の観光スポットでもある、大きな蓮池(弁天池)が見える。この広小路の左側には、川に沿って「赤羽ちょろ河岸」が続く。おおいなる賑わいを見せている。川の南側、つまり左岸には、久留米藩、有馬中務大輔の上屋敷が控え、それは次の中之橋まで続いている。有馬屋敷内の北角には、水天宮の幟が六本立ち、通行人の目に止まる。子が授かるように、安産、水難除け、水商売などのご利益を願って、江戸っ子が足繁く通った処である(明治期、有馬屋敷の移転で、日本橋蛎殻町に移動)。この水天宮から盛り上がる丘林から、一際高く、大きい「火の見櫓」が立っている。これは、江戸で一番高い火の見櫓として有名で、江戸っ子のはやり言葉「高いもんだ有馬の火の見」を生んだ。それもそのはず、有馬藩は増上寺の「火の御番」役を仰せつかっており、その功によって、幕府から賞賛されていたのである。 ■5 広重:赤羽川「赤羽橋」。有馬の火の見櫓と水天宮の幟。絵の右に中之橋と炭薪土置き場。材木林立。 赤羽橋からすぐに中之橋に着く。橋の袂に揚場が設けられており、船荷が積み卸しされている。ここは、幕末にハリスの秘書兼通訳、ヒュースケンが暗殺された場所でもある(ヒュースケン事件)。二代目広重は、ここから赤羽橋に振り返って川の景色を描く。左に増上寺の五重塔、右に有馬屋敷が描かれている。 ■6 広重:赤羽川:中之橋から赤羽橋を望む。左上、増上寺の五重塔、右、有馬屋敷 中之橋を通過すると、両岸は、芝南新門前町の家並みとなり、右手にかなり広い炭薪土置き場がある。通称、薪河岸。元禄の頃、材木屋、薪屋、土屋がこの地を拝借、薪を積み置きしたところから薪河岸。材木も積み上げられている。その先端部に増上寺将軍御霊屋御掃除屋敷代地がある。増上寺将軍御霊屋の掃除人が使った地である。ここでは、赤羽川は広い溜まりとなり、急転、南に下る。そこに一之橋が架っている(ここで幕末、清河八郎が暗殺された)。川の右側には、広い緑の川敷、土手が広がってくる。すると、ほどなく、二之橋(現在、一の橋、二の橋は地名として残る)。ここから、大名、御家人屋敷を突っ切って、なおも南に下ると、三之橋に出る。川の左右には武家屋敷や寺に混じって町民の家宅が並ぶ。ほどなく、赤羽川の流れは、また急に東西に変わる。舟を右に回して直進する。川の周囲はひときわ広い緑の川敷が広がる。所々に船荷置き場が設けられている。そして四之橋に到着。ここまで小舟が頻繁に往来していたわけである。 やがて、広い河川敷の右手に、光林寺が見える。ここは、江戸期、桜の名所として有名。左岸は白金村の農村。農家と畑が目立ってくる。流れは、ほんの少し北に転じる。右側に毘沙門天現寺。この寺に沿って北から赤羽川に流れ込む川が笄川である。 笄川 笄川は、江戸時代、龍川、親川とも云い、青山墓地の丘の両端からの流れと、その東南にある、長谷寺の水溜を水源とする流れが、霞町の南の笄橋で合流し、広尾橋を抜け、天現寺橋(天現寺の赤羽川沿い)から古川(赤羽川)に流れ込んでいた。 渋谷川 川の南がわは、広大な下渋谷村の田畑に代わり、川の呼び名は、赤羽川(金杉川、新堀川)から渋谷川に変わる。 渋谷川は、そのまま西に流れ、辺りは、広い緑の川敷を流れる牧歌的な光景。渋谷川は、各所で蛍が有名であったが、恐らくここでも蛍が飛び交っていたことだろう。ほどなく、水車橋があり、その北には、広尾を代表する、黒田長政の菩提寺、祥雲寺がある。祥雲寺は、臨済宗徳大寺派の寺院で、黒田家の他、久留米藩主有馬家など九大名の江戸菩提寺。徳川将軍家の来訪も多く、著名な医師、文化人の墓も多い。四之橋からこの辺りまで、川を挟んで北側は、武士階級、南は農地とはっきり棲み分けがなされている。 流れは、下渋谷村の田園を突っ切り、庚申橋のところから北上する。この辺りから、川の北も南も農村地帯となる。次の比丘橋を通ると、中渋谷村の田園風景が広がる。流れはどんどん北上し、金王下橋(並木橋)に出る。右手の坂上がったところに金王八幡宮。 やがて宮益橋が見えてくる(宮益坂交差点)。右手に高札が立っており、宮益坂。急にせり上がると富士見坂。左を見ると道玄坂の急坂が見える。江戸末期では、すでに茅葺き屋根の家々が並ぶ、道玄坂町が形成されている。しかし、その周囲は、中渋谷村の田畑。宮益橋を渡ると、代々木村に端を発する宇田川が流れ込んでいる。源流の代々木村では、幾もの川筋(河骨川)となって、田畑を潤している。一九一二年、代々幡村に住んでいた(参宮橋、代々木八幡駅の間)、高野辰之は、その流れを見て、故郷長野の故郷を思い起こし、「春の小川」を作詞。そのくらいのどかな田園風景だったのである。 宮益橋を過ぎると、地名は、上渋谷村に入る。流れはどんどん北上し、穏田村を過ぎると、原宿村。幾つもの小さな流れがこの間に合流している。本流は、竜岩寺の一本松(神宮前)から、さらに北上し、千駄ヶ谷町で、広大な高遠藩内藤家の下屋敷(新宿御苑)の南に出る。ここで屋敷を囲む二つの流れがさらに合流している。双方とも、この屋敷の北側を甲州街道沿いに流れる、玉川上水の吐水である。東側の流れは、この下屋敷の北東角にある、四谷大木戸側の水番屋(上水の水管理する処)から吐水として、屋敷内に入り、大きな池(現、新宿御苑玉藻池)からの水と相まって屋敷の南がわを出て、合流。左側の流れは、江戸時代、時の鐘を告げる、天竜寺から屋敷の西側を沿って流れ、千駄ヶ谷町で合流しているわけである。 このように古川水系は、江戸の田畑を潤し、下流の赤羽川となっては、水運の役目を果たし、風光明媚な江戸の田園風景を壌出していた。しかし、今や、古川となって上を高速道路が走り、渋谷駅近くまであるものの、当時の面影は全くない。数多の合流していた分流に至っては、道路となり、痕跡すらないが、いくつかの部分は、地下下水道となって、活きている。