■1 神田川水系 外堀 神田川水系 外濠 神田川水系は、関口大洗堰から江戸川と呼ばれ、船河原橋(飯田橋)から外堀に流れ込んでいる。ここで水流は二手に分かれ、一方は、東へ、いわゆる神田川として大川(隅田川)に注ぎ、もう一方は、南に下り、江戸城郭の西側を包む、外濠に利用されている。この外濠は、江戸を守る重要な役目を持つ。ために堀は深く掘られ、高い石垣を持ち、堅牢な見付(見張り所)が配置されている。このように、神田川水系は、最後には、江戸を包む外濠として活かされているのである。 船河原橋の下には、堰がある。水は、勢い良く流れ落ち、その落下音が周辺に響いている。これを江戸っ子は、「どんどん」と称した。「どんどん」といえば、そこには堰があり、貯まった水が勢い良く滝のように流れ落ちる様を思い浮かべていたのである。水流に加速度が加わり、流れは、南にも行く。江戸城郭の西側を包む外濠は、防御の重要拠点。家康以来の、幾度もの大工事により、堅牢な堀が築かれている。高い石垣が聳え、豊かな緑の景色。そして堀の周囲には、侍屋敷(旗本、御家人)が密集している。 牛込揚場町 しかし、船河原橋から、次の牛込御門までの、舟の右手の堀堰堤は低く、船荷の揚場が設けられている。かくて牛込揚場町が形成されていく。世の中安泰となった、一六五九年。当地に揚場が設けられ、大川から直接、神田川伝いに物資が運ばれるようになる。揚場町には、船宿、酒問屋、料理屋、各種の店が並び、大繁盛。後年、その流れは、神楽坂まで伸び、花街が形成されていく。雪旦は、江戸名所図会「牛込神楽坂」で、広重は、「どんどん」でこの情景を、団扇絵に描いている。雪旦は正確に描いている。街側の堀の堰堤は、低く、荷揚げしやすいような斜面構造。荷揚場は描かれていないが、引き揚げたばかりの荷が積み上げられ、運搬のだいはち車が置いてあり、見張りの自身番が建っている。その道向こうには、軽子坂の入り口が描かれ、右の家並みが牛込揚場町である。軽子坂の由来は、船荷を軽籠に入れ市中に運搬する職業人がこの辺りに沢山住んでいたところからついた名。揚場町の店の前にも来たばかりの荷が置かれてある。軽子坂から左は、土岐備前守の屋敷。そして、神楽坂。大勢の人が、段状の坂を登っている。坂を登ると、左に穴八幡旅所があり、このお神楽の音が神楽坂の語源と云われる。上り詰めると毘沙門天善国寺があり、そこから牛込寺町が広がる。この坂の先は、江戸六街道の「上州道」(早稲田通り)。一方、広重の団扇絵「どんどん」は、揚場町の舟宿「茗荷屋」から出てきた若旦那と芸者が船に乗り込もうとしている図で揚場町の雰囲気を良く表現している。広重は絵の中央に「どんどん」を描き、奥の左に牛込御門を描いているが、「どんどん」は、この位置にはない。団扇絵だけに、辺りの雰囲気をまるごと合成して描写したと思われる。彼一流の技である。ともあれ、この揚場から遊覧船に乗り、神田川を浅草まで、行く客も多かったのである。すぐに、堀の正面に高い土塁と石垣が現れる。そして堅牢な牛込御門が聳えている。船はここでストップ。いわゆる「船留り」である。 ■2 江戸名所図会 「牛込神楽坂」左下に堀と斜面土手。中央に積み上げた荷と自身番屋。外濠通りと牛込揚場町(絵の右下)。 ■3 広重団扇絵「どんどんノ図」 牛込御門 道から突き出た高い土塁と御門の石垣の狭い間を水が通る。その上に短い橋が架かっている。渡ると、さらに高い石垣を枡形に組んだ御門が聳えている。いわゆる枡形御門は、敵が橋を渡って攻め込んできても、逃げ場を失い、囲み櫓の三方から一斉に攻撃される構造になっている。特に江戸初期には、重要な城門番兵の見張り所でもあり、これを見付と称した。枡形門の内側には、広小路(広場)が設けられ、そこにも番兵が控える大番所が設置されている。牛込御門の警備には、鉄砲を始め、一通りの武器が備えられ、三千石以上の旗本が三年交替で勤番していた。その光景は、正に江戸城の一角を忍ばせる。近在に住む旗本、御家人がこの橋を渡って登城している。 ■4 牛込御門の写真 ■5 枡形見付門の構造 逆に御門から外に出ると、上州街道(早稲田通り)で神楽坂。江戸時代、坂の周囲は、おおむね御家人、旗本屋敷で所々に町人町が点在し、坂を登ると、牛込の寺町が展開する。この辺り、明治以降に花街になる。広重は、神楽坂から逆に御門を描写。当時の雰囲気が良くわかる。 ■6 広重 神楽坂から牛込御門を見た図 市ヶ谷御門 牛込御門前の橋の下を通過した神田水系の流れは、下って次の堀に流れ込む。ここから堀の幅は、俄然広がり、深みも増す。外濠通り沿いの土手はそれほど高くはないが、江戸城郭沿いの石垣、堤は高い。辺りは、武家屋敷の密集地帯であるが、外濠通り沿いには、船河原町や田町一〜三丁目の民家が見えてくる。ほどなく、市ヶ谷御門に着く。 ここも高い石垣と土塁が両側から突き出て、掘りを塞ぎ、中央にV字型の狭い石垣水路があり、その上に橋が乗っている。一段と低い次の堀へと水は流れ込んでいる。橋から見下ろすと、堀水は遙か下を流れている。水面には蓮の葉など水草が一杯漂っている。市ヶ谷御門は、さらに高い石垣に囲まれた枡形御門だが、その構造は、地形の関係から牛込御門とは異なる。枡形でも横に広がり、通行人は正面の高麗門を潜ると、左斜めに直進して通り抜ける構造になっている。それだけに、侵入敵を袋のネズミにして攻撃する枡形ではない。したがって、門前の広小路(広場)は広くとってあり、大番所の規模も大きく、大勢の警護武士が詰めている。当然周囲は、旗本屋敷が取り巻いている。 ■7 写真「堀から見た市ヶ谷見付門」 御門から堀を渡って外に出ると、通り沿いに民家が並んでいるが、その背後から市ヶ谷台地が迫り上がり、堂々たる規模の市ヶ谷八幡(別当、東円寺)の社。太田道灌がここに移し、家康から家光が大造営した。要塞のような寺である(市谷八幡町)。ここにも「時の鐘」を告げる大鐘楼があり、辺りにその音を轟かしていた。そして、寺の西側には、広大な徳川尾張中納言の上屋敷(防衛省)が睨みをきかせている。この屋敷の下、つまり南側一帯は、御先手組(治安維持)の大縄地で、警護怠りなし。 ■8 江戸名所図会 「市ヶ谷八幡宮」 左下外濠通り。市ヶ谷台に広大な八幡社が迫り上がる。 四谷御門 四谷御門は、内堀の半蔵門から来る道と直結し、門から先は甲州街道に繋がるのであるから、極めて重要な見付である。いざという時に、将軍が甲府城に逃れるための退路門でもある。それだけに堀を遮る土塁の通路幅も広い。広い土塁が堀を塞いでおり、堀から堀への水路の幅は、極端に狭く、細長い。四谷御門は、典型的な枡形御門で、広小路からは、徳川尾張中納言の拝領屋敷、井伊掃部頭直弼の中屋敷、東に隣接して徳川紀伊の上屋敷が連なり、鉄壁の備え。 極めて長く、狭い水路を通過した堀水は、次の堀に流れ込む。堀の左には、徳川尾張中納言の屋敷が見え、右側には、旗本屋敷、出雲松平家屋敷、お持ち組大縄地が広がる。そして喰違見付に出る。 ■9 写真「四谷御門」 喰違見付 喰違見付には、橋もなく御門もない。高い土塁が聳え、堀を塞いでいる。土塁の上の道の両端は角度がついて、食い違っている。つまり、入り口の道はやや左に、堀上を通過して簡易門の前は右に折れ曲がっている。これが、喰違見付。戦国時代の虎口構造。ここは、両方の谷から迫り上がった高台であったため、ぬきんでて高い土塁を利用したのである。最も古い見付で、土塁の両端を、徳川尾張、紀伊そして井伊家が固めたのである。門を抜けると紀伊国坂。高い地形を利用して、見張り台が最初に置かれた場所と思われる。土塁の西側には広大な徳川紀伊の屋敷が広がる(赤坂東宮御所)。赤坂方面に下る坂が紀伊国坂である。神田川水系の外濠の流れは、ここで止まる。 ■10 広重「喰違御門」 それからの外濠 次に続く弁慶堀は、櫻川、紀伊、井伊などの屋敷からの湧水、谷水が流れ込んでできたもの。そして赤坂御門からの外濠は、あちこちからの湧水で天然の池ができ、そこに麹町、鮫ヶ橋、清水谷、櫻川など赤坂周辺の谷川が流れ込み、いわゆる大池となった溜池を利用したもの。溜池から溢れた水は、江戸城、南の外濠となり、汐留橋から浜離宮、江戸湾に入る。したがって溜池は、汐留川の源流である。 【参考文献】 大江戸歴史散歩を楽しむ会