外濠:溜池から汐留川 ■1 外濠:弁慶堀 溜池 汐留川 神田川流れの外濠は紀尾井坂下の食い違い見付で終わる。ここから赤坂御門までの御堀(赤坂堀)は、井伊や紀伊の湧水池からの流れ、近在の鮫川などの流れを利用してできている。その掘削工事は寛永年間(一六二四〜一六四四)で、江戸城の各所の建設工事に携わった、弁慶小左衛門という大工頭が縄張り(設計)したという。それでこの御堀を弁慶堀と呼ぶようになった。清水坂と赤坂町を繋ぐ弁慶橋は、江戸時代にはなく、明治二十二年、神田岩本町藍染川に架かっていた弁慶橋(弁慶小左衛門作)を解体し、新たに造られたもの。この橋によって、紀尾井町と赤坂町が直接結ばれ便利になった。 江戸時代、堀の右手には紀伊国坂が赤坂に向かって下り(坂の右、南側は全て徳川紀伊の居屋敷。赤坂御所)、堀の北側は井伊家の中屋敷(ホテルニューオータニ)。広重は弁慶堀を幾つも描いているが一つは紀伊国坂から対岸に広がる井伊家の中屋敷を、もう一つは、逆に紀伊国坂を登ってくる大名行列を描く。この絵の左が弁慶堀でその先には赤坂の家々が密集している。そして市ヶ谷御門から牛込御門までと、この弁慶堀だけが現在も痕跡を留めている。 ■2 広重:外桜田弁慶堀糀町:対岸に見える屋敷は井伊家中屋敷 ■3 広重:紀伊国坂:右、紀伊家大名行列。左、弁慶堀、前方、赤坂の町並み 赤坂御門 弁慶堀を下ると、そこはもう赤坂伝馬町の家並み。そして弁慶堀の東端に赤坂御門が控えている。赤坂御門の参道は広く、堀を遮断している。典型的な枡形御門で、ここが重要な軍事拠点であることを示し、構えは堅牢。御門の北側には、紀伊の上屋敷、南側は松平出羽の上屋敷が囲み、守備体制は完璧。 ■4 赤坂御門写真 溜池 そして赤坂御門からの堀が溜池である。今はかけらも残っていないが(外堀通り)、家康が江戸に入府したときには、すでに存在していた天然の大池。池の各所から水が湧き出、そこに鮫川、櫻川、赤坂川といった小川が流れ込んでできた天然の湧水池である。その水は清冽で、一六五四年玉川上水ができるまで、飲料水として使われていたのである。 この天然の池を外濠として整備する。工事は慶長十一年(一六〇六)着工。責任者は和歌山藩主浅野幸長。彼は、虎ノ門側に堰を設け、池幅を広げ、池の南側の土手を広げ整備し、植林する。桐の木が乱立。通称、桐畑といわれるほど。桐の木は成長が早く、その根は地盤を強固にする。広重は、この桐にスポットを当て、溜池の光景を描く。非常に美しい景観。江戸っ子の観光スポット。 溜池の北側は、迫り上がった山王台地。松江藩松平出羽守上屋敷、岡部岸和田藩の上屋敷。そして日吉山王権現の偉容が広がっている(江戸三大祭りの拠点)。見た目にも非常に美しい景観を造り上げる。 ■5 広重:溜池、桐畑 日吉権現を過ぎると、池はさらに広がりを見せ、水面には蓮の花が咲き乱れている。そして東端の延岡藩内藤能登守の上屋敷のところに堰が設けられる。両側から堅牢な石垣が迫り出し、中央部から溜池の余水が滝のように流れ落ちている。溜池をダムのように堰き止め、ここから虎御門に向かう外濠の水勢を強めている(特許庁東南角)。原理は、神田川関口河口堰、船河原橋の堰と同じ。流れ落ちる水音が辺りに響き渡る。そこで処の人々は「どんどん」と称す。広重は「虎ノ門外あおい坂」でどんどんの夜景を見事に描いている。月夜に青白く光った水が勢い良く流れ落ちている。堰の左、登る坂は葵坂。坂上に辻番所が見え、そこで葵を栽培していたので葵坂(虎ノ門病院北側)。二八そばの屋台。金比羅大権現の長提灯を持つ二人。すぐ側にある丸亀藩京極佐渡の守上屋敷には金比羅が祭ってある。身を清め、ここに「日参(ひまいり)」寒行。堰の右上に見られる明かりの灯った屋敷は、内藤能登守上屋敷。もう一つ広重は「どんどん」の昼間の光景を描いており、この堰の石垣の様子がよく分かる。 ■6 広重:葵坂の図:正面が「どんどん」左葵坂。どんどんの背後に溜池がある。 葵坂を登り切り、辻番屋を左に。これが葵坂通りで雪旦は、ここから広大な溜池を描く。小さな大名行列、町民が行き交う。池沿いにはずらりと茶店が並んでいる。通りの突き当たりは、池沿いに榎木坂。南に汐見坂と霊南坂。池側の平たい堤には、馬場や大的稽古場。溜池の水管理を受け持つ水番屋もある。馬場側に大溜。赤坂川が流れ込み溜めになっている。土壌固めのために浅野幸長は、ここには、榎木を沢山植える。それを見下ろすから榎木坂。 ■7 雪旦:溜池俯瞰:江戸名所図会:中央溜池、上、山王台地、池のやや下、中央、葵坂通り。左下手前が汐見坂、池側が榎坂。 汐留川、外濠 虎ノ門「どんどん」から流れ落ちた水は汐留川外濠を形成する。この堰から、堀の左右は高い石垣に囲まれる。すぐ虎御門に出る(文部科学省前)。赤坂門と同じ堅牢な枡形御門。注目すべきは、堀に架かる御門参道は石垣造りで、中央から水が滝となって下っていることである。溜池の「どんどん」に続いて堰となり一段低く設計。この先、堀は江戸湾、大川の入江、浜離宮に流れ込む。そのため、満潮時海水の逆流を阻止する必要がある。ここからこの堀川を汐留川と呼ぶようになる。 ■8 虎御門写真 虎御門の次が新シ橋である(新橋の語源)。これも堅牢な石垣の橋。この橋のたもとから南に下る小川が櫻川(増上寺堀を巡って古川に注ぐ)。そして幸橋。溜池の「どんどん」から、ここまで左右はほとんど大名屋敷で固められている。橋の左側一角には幸橋枡形御門が聳えている。そしてここに一石橋、鍛冶橋から来る日本橋川流れの外濠が注ぐ。この堀の北側にある山下御門は、堀に迫り出して在り、狭い水路が設けられている。これも堰状で、潮の逆流を防ぐ処置。幸橋の次が土橋。橋の上に土が被せてあり、一見すると道である。次が難波橋。そして東海道に架かる芝口橋。ここに北側から来る三十間堀が合流。そこに架かる橋が汐留橋。ここには潮の逆流を直接受けるところだけに堰が設けられていたに相違ない。そして汐留川は浜御殿(旧浜離宮庭園)の北側を舐めて、江戸湾に注ぐのである。溜池も汐留川も道路と化し、今は全く痕跡もない。