目黒川 ■1 目黒川 目黒川は、太古の昔、海水が内地にまで入り込んでいた時代の名残である。江戸の南側では、東西に流れる川として古川に次いで重要な運搬河川であった。江戸時代、東海道は、海縁をはしっている。目黒川の河口は、海に沿って品川と州崎を縫うように南に下る。海側の州崎は防波堤の役目を果たしている。そして、品川宿を分断して流れを西に変える。上は、北品川宿、下は、南品川宿である。その流れは、常に穏やかなで、船の停泊、荷上げの最適地。そこで、品物を運ぶ川、つまり品川の地名を生ンだと云われる。 目黒川は、高源院(世田谷区烏山)の池を水源とし、幾つかの支流を加え、品川に流れ込む。そのため、満潮時には、海水が逆流して目黒の方まで上がることになる。そこで今回は、下流から上流に向かって動こう。 品川州崎 江戸湾には、沢山の帆掛け船が浮かび、細長く突き出た島状の州崎(埋め立て地)。その先端に州崎弁天社(水の神弁財天を祭る)は在る。ここが目黒川の河口で弁天社の向かいは、北品川宿の家屋が密集。二階の部屋(最も有名な妓楼、土蔵相模)から客人が眼前の江戸湾の景色に見とれている。眼下には、荷を積んだ船が海に向かっている。その右には、宿場と繋ぐ太鼓橋、鳥海橋が描かれており、弁天にお参りする人の姿がある。空には雁であろうか、野鳥の群れが列をなして飛び交っている。海沿いに面した品川の宿が、江戸の人々にとってどんなに憩いの場所であったかを物語っている。この風景こそが、目黒川が江戸湾に流れ込む現場なのである。 ■2 広重:「品川すさき」目黒川の河口。中央に州崎弁天社。左下土蔵相模、右下鳥海橋。江戸湾には、多数の船が浮かぶ。絶景。 鳥海橋を潜る。左は、州崎で漁師町、右側は北品川宿の家屋が海に向かって並んでいる。東海道に架かる中之橋から流れは西に転じる。橋の麓に高札が立ち、目黒川は北品川宿と南品川宿を分けている。当時、品川宿は街道筋に沿って宿屋、料理屋、妓楼が数百軒、軒を並べていた。船がさかんに行き交い、宿場町に物資を運んでいる。 寺町、御殿山 宿場町が終わると、川の両岸には、お寺の屋根が林立する様が見える。寺町の出現。北側には、一六三九年、徳川家光が沢庵宗彭を招聘して創建された名刹、東海寺がある。その北側には、桜、フジ、紅葉で名高い御殿山。流れはやや北上する。この辺りから、大崎村北品川宿の田や畑が多くなる。そして桐ヶ谷村。畑の中の一画に火屋とあり霊源寺が管轄。これが江戸時代の火葬場、今の桐ヶ谷斎場である。 明王院、太鼓橋、行人坂 目黒川の右岸からは台地が迫り上がっており、三千四百坪の柳生対馬守下屋敷に続き、二万三千坪に及ぶ肥後熊本藩細川越中守の抱え屋敷(杉野女子大)。隣接して山手七福神の明王院(雅叙園)。左岸を見ると、広大な目黒不動の南縁を通り、流れ込んでいる羅漢川が見える。明王院は、明治の廃仏毀釈で廃院となったが、当時は大伽藍であった。そして太鼓橋に出る。この橋は、珍しい石造りで一七六九年(明和六年)に完成したという。橋を造った人は、諸説あるが八百屋お七の恋人、吉三郎という伝説が残されている。彼は、明王院で修行し、西運上人となる。西運は、鈴ヶ森で火炙りの刑に処されたお七の菩提を弔うために、明王院から浅草観音まで鐘を叩き、お念仏を唱えながら往復すること(約四十キロ)、二十七年半をかけて一万日の行を積む。成就のきっかけは、お七が夢枕に立ち成仏を告げたので、お七地蔵尊を建てたという(今は大円寺に)。行の途中、多くの人達から浄財を頂き、それを元手に目の前の行人坂に敷石道を造る、あるいは石の太鼓橋を架けるなどの社会奉仕事業を行っている。明王院の一郭にあった大円寺(五百羅漢で有名)には、今も橋の一石が残されている。 ■3 広重「目黒太鼓橋夕日の岡」雪景色。橋の左にシイの木。夕日の岡。 太鼓橋の下を幾分蛇行しながら流れる目黒川の情景は絵になる。現代も橋の上からこの風景を飽かずに眺めている人が多いが、満潮時には潮が逆流してくる。両岸は、桜の名所で、桜祭りでは大変な賑わいとなる。目黒のサンマという古典落語があるが、将軍が鷹狩りに来て、サンマに舌鼓を打ち、「サンマは目黒に限る」という落ちがあるが、これは実話と思われる。江戸湾から獲りたての新鮮な魚を船で運ぶことぐらい、日常であったに相違ない。 行人坂 太鼓橋から明王院沿いに登る急坂が行人坂で、その界隈は、江戸時代大変な賑わいを見せた。逆に行けば岩屋弁天で有名な蟠竜寺にぶつかるし、その南には、三代家光が鷹狩りの際に必ず寄った目黒不動竜泉寺の広大な境内がある。江戸っ子は、正月七日は、目黒不動参詣をならいにしていたので、太鼓橋と目黒川から迫り上がる台地の風景は別格で遊興も兼ね、江戸の名所となった。行人坂の上からは、富士がよく見え、富士見の名所(富士見茶屋)。そういうわけで、広重も雪旦も太鼓橋界隈の情景を絵にしている。広重は、雪が降りしきる太鼓橋の光景を描く。渡る人も少なく、箕を被って歩く人の姿もある。皆さん明王院、行人坂に向かって歩いている。渡ると右側の麓に柵に囲まれた中、雪を被ったシイの木が描かれている。この木は今も健在である。目黒川の蛇行の様や東側の迫り上がった丘の雪景色が手に取るように分かる。雪旦が描く太鼓橋は大勢の人が渡っている。また、広重の目黒行人坂の図では、登り切った処に富士見茶屋があり、正面に大きな富士が描かれている。このように目黒川の東は迫り上がった丘で、西側一帯は平地の田園風景が展開する。一帯の丘の上から見る富士を含めた景色は絶景で、江戸の人々は、夕日の岡と呼んで親しんだ。 ■4 広重「目黒行人坂之図」行人坂を登り切ったところから富士を見る。右、富士見茶屋。 爺々が茶屋 太鼓橋を潜りさらに上流に向かう。直ぐに新橋(今の目黒通りに架かる。右に上がれば権の助坂)。川の西一帯は、実り豊かな田畑で下目黒村、中目黒村となる。そして田道橋。この橋は、地域の農民がことさら愛用した橋で東に行くと若干の田畑を縫い、すぐ山道となる。上に一軒の茶屋がある。「爺々が茶屋」。三代将軍家光は、鷹狩りの際にここに立ち寄り、茶屋の主人で百姓をしていた彦四郎の素朴な人柄に惚れ込み「爺、爺」と声をかけた。そのためについた名。サンマも献上したのかもしれない。十代将軍家治は、彦四郎の子孫が出した団子や田楽を大層喜んで食したという。この茶屋に至る坂道が茶屋坂(目黒清掃工場脇を上がり、防衛省技術研究所の処)である。ここから見る富士の景色がすばらしく、広重は、「目黒爺々が茶屋」で描いている。この辺りは千代ヶ崎といい、江戸っ子の観光の名所であった。上から下に広がる田園を見下ろす。百姓が馬を引いている。小高い丘がある。その上に広い長泉院の境内があった。境内の南を登る坂が「馬喰坂」で、その北側が「鍋ころ坂」である。この絵の遠方には、丹沢の山並みとその背後に富士山が格調高く描かれている。 ■5 広重「目黒爺々が茶屋」右下茶屋。中央畑。小高い丘がある。右上丹沢と富士。 皀樹橋、目黒新富士 さらに上流に行くと、皀樹橋(駒沢通りに架かる)がある。そこから斜め右へ。別所坂を登っていくと富士信仰の目黒新富士があり、三田用水が通る槍が崎。この辺りに、鎌倉時代武蔵の豪族、目黒氏の居城があったという。ここでも、広重は目黒川沿いに咲く、桜の花見を楽しむ人、人工の新富士の頂上に立って、本物の富士を眺める人の姿を絵にしている。 ■6 広重「目黒新富士」目黒川沿いの花見。富士信仰の新富士の上から本物の富士を拝む。 大橋から源流へ 皀樹橋を潜ると、左側から蛇崩川が流れ込んでいる。この川は、弦巻に端を発し、下馬を通って合流している。(中目黒駅東側で目黒川に注ぐ)。この川の名は、蛇のようにくねって流れているから、あるいは、両岸を深く浸食して壁が崩れるところから、土地の人が砂崩川と呼んでいたところからついた名と云う(今は緑道化)。さらに田圃を縫って進むと次が宿山橋。ここからは田畑を潤す幾筋もの網状の流れとなり、再び一本化して大橋に到達する。大橋の上を通る道が、江戸の大山道(大山詣)で今の玉川通り。橋の左側一帯は池尻村で、地名にちなんで、今は、池尻大橋。橋の手前左に縄文公園がある(東山三丁目)。縦穴住居。そして看板。その絵には、縄文人の生活が描かれ、目黒川は崖下の海で、遠くで火山が噴火している様が描かれている。ここで貝塚が発見された。すなわち、縄文期、海水がここまで押し寄せていたのである。 大橋を潜ると、目黒川は広大な駒ヶ原ご用屋敷(駒場)沿いに左に流れ、やがて北沢川と烏山川に分かれる(池尻四丁目)。北沢川は上を流れ玉川上水まで行く(高井戸)。烏山川は、下を流れ、若林を通り、高源院に辿り着く。すなわち、高源院鴨池(北烏山)が目黒川の水源である。これらの川は、今はほとんど緑道化している。