■1 立会川 浜川橋 立会川の河口は、品川宿の南にあり、江戸湾に注いでいる。源流は目黒の碑文谷池、清水池であり、辺り一面の田畑を縫って東海道に架かる浜川橋から直接、海に流れ込んでいる。 浜川橋。鈴ヶ森獄門場に送られる罪人は、この橋の袂で親族、関係者と最後の別れを告げ、直ぐ南、東海道に面する鈴ヶ森刑場で露と消えるわけだ。そこで通称、「泪橋」。橋の目の前は江戸湾の波。左に土佐山内家の荷物揚場がある。この辺り、東海道は正に海縁を走る道である。波が押し寄せ、カモメが飛び交い、帆掛け船が漁をしている。 周囲は、大井村の田畑。立会川沿いに土佐藩の下屋敷があり、山内容堂公は、この山の上から美しい眼下の海を眺め、酒を酌むことをこよなく愛でた。彼は大変な酒豪で字も「鯨海」。ために、遺言により、今もこの下屋敷の一郭に眠っている。 江戸の人々は何故立会川と呼んだのか、諸説ある。一五二四年、江戸攻撃の北条氏綱とこれに立ち向かう上杉朝興が、この川を挟んで合戦。それで「太刀会川」と処の人々は呼び、いつしか立会川になったという説。また、東海道に架かる、江戸湾沿いに架かる浜川橋での、罪人と縁者の泪の別れ、最後の見送りを受ける場所と云うことから、立ち会いの場、すなわち立会川という説。恐らく、江戸の人は、立会川と聞いてまず脳裡に浮かぶのは、こちらのほうであろう。まだ、十七歳の少女、八百屋お七は、この橋の袂で縁者と別れ、そして橋を渡って、鈴ヶ森で火炙りの刑に処せられるのである。参集した人々は、涙涙であったろう。罪人の霊を弔うためか、この浜川橋を挟んで諏訪社と神明社(天祖神社)がある。 土佐藩下屋敷 浜川橋から船を漕いでちょっと上流に行くと右手に一万六千坪に及ぶ山内容堂の下屋敷。川は、同屋敷の南縁を走っており、見上げると小高い岡が迫り上がっている。ここで屋敷内から湧き出た流れが立会川に合流。 そこを過ぎると、流れは、一万八千五百坪の島津斉彬の抱え屋敷内を突っ切る。敷地内を立会川は流れているわけだ。この屋敷を出ると辺りは全て大井村の田畑。池上道に架かる橋を潜ってさらに行くと農道の中立会橋。流れは蛇行しながら諸処から湧き出た小さな流れを加えながら、田や畑の中を進む。稲荷社や東光寺の屋根が見える。さらに西へと進むと、荏原郡平塚村。大字中延でも北からの小川が流入している。辺り一面、のどかな田園風景。寺社が点在。誠に良い景色である。 中延で幾つもの湧き水を加え、幾筋もの田畑を潤す複雑な流れとなって北上。正に、立会川は農作に欠くべからざる川である。そして鬼子母神法界塚近くに来ると、清水池から南下してきた流れが加わる。 清水池 清水池。湧水池で江戸では弁財天を奉り、「池の上池」と称されていた。今は、目黒区で唯一の釣り堀として大賑わいを見せているが、当時は田畑を潤す、貴重な潅漑水源であった。規模は小さいが水量は豊富で溢れ出る水が下を流れる立会川に合流していたのである。立会川のこの辺りは、今は、立会川緑道として桜の古木を愛でる散歩道として名高い。 円融寺 すると流れは、広大な寺域を持つ円融寺の東南の角に出る。比叡山延暦寺の末寺として八五三年に開山。鎌倉時代に日蓮の弟子日源が日蓮宗に改宗。以来、法華寺として栄えた。江戸初期には坊舎十八、末寺七十五に及び、大変な賑わいを見せた。徳川一門の擁護もあったが、元禄年間に弾圧を受け、再び天台宗に改宗。美しい釈迦堂は室町初期の建立。仁王像で有名。こうした経緯から、江戸名所図会で雪旦は「碑文谷法華寺」としてこの辺りの風景を描いている。門前をぐるりと巡る小川が立会川である。流れは、円融寺の南、西側をぐるりと舐め、碑文谷村の田畑を北上し、厳島神社弁天池に出る(碑文谷公園碑文谷池)。 ■2 江戸名所図会 雪旦 碑文谷法華寺:中央法華寺、その手前を流れる小川が立会川。農道を挟んで向かいが碑文谷八幡 碑文谷池 碑文谷池は、江戸時代現在よりもずっと大きく、木々が鬱蒼と茂る自然のちょっとした渓谷のような状態であった。ここから湧き出る水は豊富で立会川となり、水田潅漑用のいわば貯水池として碑文谷村の農民がこぞって擁護し、池の中央に厳島神社を設け、命の水とも言える、湧泉の保存を祈願してきた。江戸初期では、野鴨が豊富に生息していたため、将軍の鷹狩りの好適地として重用される。歴代の将軍が必ず訪れる鷹狩り御用地に指定されている。近在の鷹番町という地名は、そこに鷹番があり、鷹匠が鷹の訓練に使っていた名残である(鷹番幼稚園)。今の、東急学芸大学駅辺りと碑文谷池間は、鬱蒼とした竹林に覆われていた。このように、江戸期、農村を潤してきた立会川の流れは、今や河口の浜川橋近辺のみ。残りは、全て緑道か道路と化している。一時期、この流れも汚染が甚だしかったが、なんと遠くのJR馬喰町、東京駅間のトンネル内から湧き出た水をひくことによって浄化され、今日ではボラが遡上し、話題となっている。