呑川 ■1 呑川水系 呑川は、桜新町近辺(本流)、駒沢近辺(駒沢、柿の木坂支流)、九品仏(九品仏川)からの湧水流が合流して江戸湾に向かう流れである。江戸の地形は、幾筋もの台地が襞のように江戸湾に向かって伸びている。呑川もそうした台地の谷合いを流れている。そして今の昭和島辺りで江戸湾に注ぐ。江戸の南を江戸湾まで流れる川は、上から古川、目黒川、立会川、呑川、そして多摩川となる。多摩川から先は江戸圏外、相模国となる。 江戸時代、この呑川の清流は、当初、貴重な農業、潅漑用水、飲料水、生活用水として使われ、後には江戸湾に豊富な養分を流し、有名な大森海苔の隆盛をもたらした。また、川メダカ、ドジョウ、フナ、ウグイ、手長エビなどの水生生物の宝庫で、夏ともなれば蛍が飛び交い、ヤンマが飛ぶ、正に、春の小川の感であった。 現在、呑川はほとんど緑道化され、都民の散歩道となっている。現在の流れは(大岡山、東京工大から東京湾)、浄水所からの引き水で、コンクリート堰堤に囲まれ、東京湾に注いでいる。 呑川本流 呑川本流は、今の桜新町付近を水源とする。江戸の大山道は、小高い丘の上を走っており、大山詣の人々は、富士山や丹沢連山、西端の大山を眺望しつつ歩いたのである。 呑川源流は、この大山道付近から南へと丘襞を縫い、深沢の湧き水を加え、下へと流れている。その先、なだらかな丘の谷間を流れ、国道246玉川通りを突っ切り(これも大山道)、日本体育大学の脇を通過、駒沢通りに向かう。玉川通りと駒沢通り間は、今、呑川親水公園となっており、数々の水生植物が花を咲かせ、鴨が泳いでいる。水生生物はいない。というのも、浄水場の処理水を引いて循環して流しているからである。親水公園の先は今や緑道化され、全体あちこちに桜並木があり、花をめでる名所と化しているが江戸期の呑川の流れは、なだらかな丘に挟まれた中を流れるような光景。竹林や田畑が多くなり、東横線都立大学駅の南側に出る。この辺りで二本の呑川支流が加わる。 呑川駒沢支流 江戸時代、駒沢は広々とした丘であり、ところどころに林がある自然の風景。連なる丘では、馬(駒)の飼育も行われていた。駒沢という地名は明治になって上馬引沢村、下馬引沢村、深沢村などの沢と駒(馬)の合成語。今の駒沢公園、オリンピック競技場辺りから流れ出た湧水が南に下り、畑の道に架かる衾橋を潜り、八雲を抜けて前述の呑川本流にTの字にぶつかる流れを呑川駒沢支流という。 呑川柿の木坂支流 東急田園都市線駒澤大学駅の南、上馬、東ヶ丘辺りから湧き出た水が緩やかな丘の底を通り、都立大学駅南で本流に注ぐ。これが呑川柿の木坂支流である。江戸時代、丘の斜面は畑で、その底を川は流れ、さながら春の小川の感であった。ここも水生生物が豊富で、ヤンマが飛び、昭和になっても処の人々が野菜を洗い、ドジョウを捕っていた。今は緑道化され、道の両側には、種々の木々が豊富に植わり、平坦な散歩道。両側を見ると、柿の木坂やら坂になっているが、これが昔の丘の名残。この川は江戸期、抉れた底を流れ、所々では、土手の底を流れている感があった。この流れが、田畑をぬう縫う平坦な流れとなり、やや下って右に折れ曲がり、呑川本流に合流していた(都立大学駅側)。 江戸時代この辺り一帯は、衾村で都立大学駅から大岡山にかけての地名は衾村平根。つまり台地の平らな縁部。今の平町の語源であろう。平町から駅を見下ろすと呑川が谷底を流れている様子が分かる。本流と二本の支流を加えた呑川は、大岡山方面に流れる。左右を見ると平たい丘が迫り上がっている。途中、右側に迫り上がった丘が中根。東京工大に達する現在の緑道は、桜の名所でもある。そしてこれから述べる九品仏川が右手から合流してくる。 九品仏川 田圃から小高い丘になり、鬱蒼とした森。これが奥沢村、浄土宗浄真寺。この寺は、江戸っ子にとっては、九品仏でお馴染み。雪旦の江戸名所図会では、田圃沿いの参道(両側は家が立ち並ぶ。自由が丘駅から九品仏へ)に大勢の参拝客が歩いており、民家が建ち並んでいる。参道は左に折れる。すると、正面に、格調高い山門が聳えている。山門の左側一帯に、つい最近まで天然の鷺草が咲き乱れる神秘的な庭があった。山門を潜って境内に入ると左側に大鐘楼があり、右側に方丈。前方に大銀杏が目立ち、その背後に三つのお堂がある。これが九品仏として名高い、上中下品の阿弥陀如来様。立派な本堂が右側に控えている。境内の周囲は土塁に囲まれており、室町時代、ここが吉良一族の砦であったことを示す。境内のあちこちに古木が立ち並び森閑としている。この広大な寺域の西側を流れている小川が九品仏川である。江戸時代、浄真寺の背後に九品仏池という湧水池があり、流れ出した湧水が小川となったものである。江戸の参詣客は、池と流れの周囲に咲き乱れる鷺草、自然の神秘的な光景に酔いしれた。今や池はなく、水はほとんど涸れているが木道などの散歩道があり、当時の面影を残している。この流れは田畑を縫って自由が丘駅の方に向かう。江戸期にはこの流れの周囲にも鷺草があった。悲劇の常磐姫が鷺草になったという伝説もあり、白鷺が飛翔する姿にも似たこの花は、世田谷区の区花となっている。 緑道伝いに読み取れる流れは、自由が丘駅の側を通り、古社の氷川神社の手前を走り、やがて左に折れ、緑が丘で呑川本流に合流する(東京工大)。 江戸湾までの呑川の流れ 現在のコンクリートの河川がここから始まる。この流れは浄水場の高度処理水を引いたもの。昔は川の両側を見ると緩やかな丘が連なっており、その谷間を呑川が走っていた。やがて中原道に出る。ここに石橋が架かっていた(石橋供養塔の碑)。流れはさらに東へ進む。すると左側から別の流れが入り込んでくる。これが洗足流れ。中原道に面する洗足池から溢れた水が呑川本流に繋がる。今でも途中まで存在し、コンクリート川の両側には木々が立ち並び、その一部で蛍の飼育などが行われている。 本流はやがて池上本門寺前を通過。流れの左側、平地から盛り上がる丘全体が寺領。日蓮宗の名刹で日蓮が荼毘にふされたこの広大な寺は、徳川家の擁護も受け、大伽藍を残した。国の重要文化財「五重塔」は、秀忠の乳母、正心院が秀忠の病気治癒の御礼として建立した。江戸時代の梵鐘は、加藤清正の娘で紀伊徳川家初代頼宣の妻、瑤林院の寄進。紀伊徳川家の墓所、細川、上杉、西条、松平家、徳川吉宗の側室の墓。水戸徳川家の墓所、前田利家、加藤清正室の層塔もあり、総門の扁額は、本阿弥光悦の書、徳川家抱え絵師、狩野探幽等の墓もある。 ■2 本門寺:江戸名所図会:寺の前を流れる川が呑川 呑川は、この本門寺の前を蛇行しながら流れる。この辺りに来ると、見渡す限りの田畑を縫うのどかな流れ。やがて広重も描く、梅屋敷の南を通り、糀谷(京急蒲田駅先)で二つに分かれる。上の流れが江戸期の呑川の流れで、海に注いでいた(緑道化)。下の流れは、昭和期に掘削されたもの。これが現在の呑川となっている。