■1 多摩川上流水系 多摩川 多摩川こそは江戸の母なる川である。この川は江戸市中へ飲料水を始め、作物を育てる潅漑水を提供し、鮎漁を初めとする豊富な漁場資源をもたらしている。その上、貴重な自然環境そのものである。そして地政的には大江戸領域を守る最後の外堀ともいえる。家康は一五九〇年江戸に入府すると大都市構想実現策を推進するが、多摩川の治水工事もその一つに含まれる。大洪水の暴れ川として大きく蛇行していた流れをより直線的に変え(瀬替え)、連続堤防を整備。一五九七年には、早くも潅漑用の、「六郷用水」の掘削を命じている(狛江から大田区に至る)。多摩川の治水事業は江戸時代を通じ実施されており、今その動きは今日まで継続されているといえる。 多摩川流域は、古代人にとっても母なる川。川沿いに残る、無数の古墳がその証左である。江戸の人々は、多摩川を玉川と表記する場合が多いが、これは山城や紀伊にある玉川と合わせ、六玉川と呼んでいたためである。 水源・水系 多摩川の水源は、奥多摩をぐるりと囲む秩父山地。笠取山・唐松尾山の南斜面、大菩薩領の東斜面、雲取山南斜面から湧き出た幾筋もの流れ。笠取山・唐松尾山の南斜面各所から湧き出る複雑な流れがひとつになり、そこへ倉掛山東斜面から湧き出た流れが加わる(奥多摩養魚場)。少し南に下ると、大菩薩領北斜面から湧出した幾筋もの流れが一つになり加わる。そして丹波渓谷を形成し、東へ流れる。さらに南から幾筋かの流れを加え、今度は雲取山の南斜面の各所から湧き出た流れが北から流れ込む。これらの源流が奥多摩湖を形成するのである。近代にできた奥多摩湖を上から俯瞰すると、まるで龍が横になっているように見える。これは昔の流れの姿がそのまま広がって湖になっているという印象。そこに白糸の滝辺りからのこれまた幾筋もの湧出水がまとまり、三頭山からの流れも加わって湖に流入する。さらに鷹巣山南斜面から湧き出た幾筋もの流れがひとつになり南下し湖に流入する。湖の幅は、広がりを見せる。 奥多摩湖から東へ 現在の小河内ダムから出た本流は、蛇行しながら東へ進む(境渓谷キャンプ釣り堀場)。そこへ、太平山南斜面から湧き出た水が南下。日原鍾乳洞を形成。そこに別の雲取山東斜面からの幾筋もの流れがまとまり合流。そのまま南に下り、日野明神社を経由して本流に加わる。これが日原川。そして本流は、蛇行しつつ、渓谷を縫いながら鳩ノ巣に達する。ここから蛇行が緩やかになり、御嶽へ。この間も、幾つかの流れが北から加わっている。森林、渓谷、蛇行。やがて流れは、二俣尾、日向和田を通過。青梅に達する。ここまで最高の自然渓谷美が展開されているのである。この辺りから川幅が広がり、広い河川敷を形成していく。そして羽村に着く。 玉川上水 家康は、江戸入府前に早くも上水路(飲料水)の掘削を検討している。最初にできたのは小石川上水。その後、江戸の埋立て開発にともない、一六二九年に神田上水路が完成。そして一六五二年に幕府は、多摩川の水を江戸市中に引き入れる壮大な計画を立てる。工事総奉行は老中松平伊豆守信綱。工事請負人は庄右衛門、清右衛門兄弟。工事は翌年から始まり、その年の内に羽村取水口から四谷大木戸まで四三キロの素堀水路を完成させる。水路は武蔵野台地を這い上がるように進み、尾根筋を流れ、自然落下方式で四谷に達する。難工事である。四谷大木戸からは地下に潜り、石樋、木樋を繋いで虎の門まで敷設。江戸城、四谷、麹町、赤坂、芝、京橋に至る水道管を設置。江戸南西部一帯への飲料水供給網を完成する。この功績により、兄弟は玉川の姓を承り、二百石、永代水役に取り立て。そして松平伊豆守には、玉川上水の立川から領地、野火止へ(平林寺)と上水を引く権利が付与された。これが野火止用水である。したがって処の人々は、これを「伊豆殿堀」と呼んだ。 多摩川中流域 多摩川は、羽村からは大河川敷となり、福生に向かう。家康入府時は、この流れも度重なる大洪水で武蔵野台地の方へ大きく蛇行していたと推定される。それを瀬替え(蛇行部分のショートカット)によって現在の流れに変えた人が田中丘隅である。彼は、多摩川を大河川敷に変え、下流まで連続堤を築造。大改造に挑む。これは全国の河川土木技術に大きな影響を与える。彼は多摩川だけでなく、荒川の改造など幕府治水事業に大きな足跡を残す。 多摩川のその後の姿は、江戸時代から現在と変わりない。雪旦は江戸名所図会で江戸期の姿を明瞭に伝えている。広い河川敷の中を多摩川は幾筋もの流れとなって綾なしている。手前に連続堤が見え、対岸の山は多摩丘陵。背後に富士が控えている。誠にのびやかでスケールの大きな光景である。ところどころに橋が架けられ、州を行き来できるようになっている。あちこちで漁の特殊な仕掛けが見られる。 ■2 雪旦:江戸名所図会:手前に連続堤、向こうに多摩丘陵、そして富士。右上、高尾山。丹沢左端の大山も見える。所々に橋が架けられ漁がなされている。 多摩川の鮎漁 多摩川は、上流から下流まで豊かな漁場である。多摩川の魚は縄文人の食糧源であった。領域の縄文遺跡からは魚骨、狩猟器具の類が多数発見されている。幕府は、漁業権の設定や網漁鑑札制度を設け、組織的な漁獲量増大を目指す。漁獲量の調整など見事なものである。漁法は、網漁、釣漁、簗漁、鵜漁など約二十種類に及ぶ。鵜飼も行われていたのである。鮮度を落とさず江戸へ運べる多摩川の川魚の商品価値は高く、特に鮎は珍重された。 将軍家に献上する鮎は、御菜鮎と呼ばれ、取り仕切る役目が御菜鮎上納役。将軍の「鷹狩り」と同じく、多摩川御川狩御成が頻繁に実施される。 長谷川雪旦の江戸名所図会「多摩川の光景」には、釣漁や網漁をしている姿が必ず描かれている。 ■3 雪旦:江戸名所図会:玉川鮎漁 中流に向かって 多摩川は羽村から福生に着く。これからのいわゆる中流域では、川の左右から数多くの支流が流れ込む。これは武蔵野台地と多摩丘陵の間を多摩川が流れているためである。江戸湾に向かって左岸の武蔵野台地からは、下流に向かって順番に、残堀川、野川、仙川・丸子川、谷沢川が、右岸の多摩丘陵からは、平井川、秋川、谷地川、根川、浅川、程久保川、大栗川、三沢川の順に流れ込む。