多摩川中流域 ■1 玉川中流河口域 多摩川の流れは羽村から福生に着く。広い河川敷の中を幾筋もの流れが綾なしている。州から州へ、漁師は渡ることができる。一本化した流れの処は、船による「渡し」の往来。羽村から下流の丸子の渡しまでが中流域。そこまで両側から多数の支流が流れ込んでいる。これらの支流は主として多摩丘陵と武蔵野台地からの流れである。故に、多摩川水系はダイナミックな風景を演出。江戸湾に向かって右岸方向の多摩丘陵からは、平井川、秋川、谷地川、根川、浅川、程久保川、大栗川、三沢川が。左岸方向の武蔵野台地からは、残堀川、野川、仙川・丸子川、谷沢川が流入しているといった案配。 本流は、福生に着く。河川敷はさらに広がり、右から平井川が流れ込んでいる。この川は、日の出山の南斜面から流れ出、日の出町を通り、「あきるの」で北からの流れを加え、多摩川に入る。 やがて本流は昭島へ。するとここでは右側から秋川が合流。秋川は支流の中で最も大きく、それ自体、水系を形成している。 秋川合流、昭和用水堰 秋川は、三頭山の南東を水源とし、二つの支流を加え、本宿へ。そこで北秋川が入り込み、その後も四つの支流を加え、昭島で多摩川に流入している。その辺り、幾筋もの流れが綾なす水の都といった光景。江戸時代、この辺りから幾つもの田畑を潤す用水が引かれていたからに他ならない。 多摩川と秋川の合流点には、羽村(玉川上水)に続く大きな取水堰、昭和用水堰がある。これは昭和十八年に施設、現在の大規模コンクリート堰(昭和三十年)になったが、すでに室町時代から堰があり、江戸時代に、竹籠に石を詰めたものを積み上げて造った堰を大改築。昭島、拝島(立川)、大神など九ヶ村の田畑を潤す、いわゆる「九ヶ村用水」を引いたのである。取水堰とは、水を堰き止め、取水口を設け、用水を田圃に流すシステム。 日野用水堰 そこから僅か二・七キロ下流にあるのが、日野用水堰である。この辺り、多摩川は、広い河川敷の中を幾筋もの複雑な流れが綾なしている。そして州と州を繋ぐ堰が設けられる。これが日野用水堰。そして江戸期、日野一帯は「多摩の米蔵」と呼ばれるに至る。それもこれも日野の田畑全域に網の目のように日野用水が流れていたおかげ。この用水の歴史は古く、一五六七年に開削。多摩川に架かる、現在の日野用水堰は、昭和三十年に完成されたものだが、江戸期にはこの前後に二つの堰が設けられ、上堰用水と下堰用水となって日野の田畑に流れ込んでいたのである。 この堰から少し下流に行くと、右から谷地川が流入。これは、八王子、戸吹辺りを水源とする川。ちょっと下ると、今度は左側から武蔵野台地、瑞穂町狭山ヶ池を水源とする「残堀川」が流れ込む。 浅川 さらに下流へ。府中。右側から流れ込む大きな川。これが浅川。水源は陣馬高原の和田峠付近。上流は、案下川と呼ばれ、これに小仏峠を水源とする小仏川、高尾山から来る案内川が合流、浅川となる。日野田園の南側を走り多摩川へ。この間、浅川には各所から支流が流入。秋川と同様大きな水系を形成している。 大丸用水堰 多摩川は稲城に到達。ここにあるのが大丸用水堰。江戸初期、この取水口から大丸用水が開削(総延長七十キロ。登戸辺りまで)。この取水堰も、石を入れた竹蛇籠を積み上げたもの。 二ヶ領上河原堰 さらに大丸から六・六キロ下流の稲田堤にあるのが有名な二ヶ領上河原堰(上の口)。これは二ヶ領用水のために造られた取水堰である。多摩川はこの堰から大きな中之島を形成しており、過ぎると川幅はぐんと広がり、またすぼむ。すると宿河原(登戸)。ここに設けられたのが二ヶ領宿河原堰(下の口)である。この二つの取水堰から流れ出ているのが二ヶ領用水。家康は江戸に入ると、すぐにこの掘削を命令。二ヶ領とは、稲毛領と川崎領のこと。一五九七年用水奉行小泉次大夫は工事を開始(関ヶ原の三年前)。十四年の歳月を経て、一六一一年(慶長十六年)に完成。その結果、稲毛領三十七ヶ村、川崎領二十三ヶ村、二千町歩を潤す水路が完成。「上質な稲毛米」は、江戸の台所を満たすことになる。この用水は、要するに江戸湾に出る、多摩川と鶴見川の間を巡らせた水路である。 六郷用水 時を同じくして、多摩川の左側を通した用水が六郷用水である。この工事も小泉次大夫が現場監督したので、江戸の人々は「次大夫堀」と呼んだ。流路は、二ヶ領宿河原堰近くの取水口から狛江を通り、武蔵野台地南端から多摩川に注ぐ、野川、仙川を利用し、南下。二子玉川で大山道を突っ切り「二子の渡し」を右に見て上野毛を南下。等々力渓谷を形成し、多摩川に入る矢沢川を突っ切り丸子川へ。多摩川縁に出て亀甲山古墳前を通過(東急多摩川駅)。中原街道を突っ切り、沼部駅、多摩堤通り沿いに走り、西嶺町観蔵院下を通る。これが当時、切通しの急な坂道。しかも堅い岩盤を最大七・五メートル掘削するという最大の難工事。挙げ句の果てに次大夫は、若い女性を応援に駆り出して現場の男達を活気づかせたという。そこでここを「女堀」という。 それから環八に沿って南下、千鳥町三丁目で東へ。すぐ用水は、南北に分かれる。北堀(池上、大森方面)と南堀(蒲田、六郷)。この地点を南北引分という(石碑)。 百年後の一七二五年、多摩川全体の理想的な河川工事を完成させた天才、田中丘隅(休愚)が、二ヶ領用水と六郷用水の大改修工事を実施している。かくてこの二つの用水は画期的な農産物量を江戸市民のため、生み出したのである。 ■2 多摩川河口部の渡し 河口に向かって 「渡し」 左に亀甲山古墳を見て、ここから多摩川は滔々たる一本化された流れとなり、羽田空港沿いに江戸湾に出る。最初に目につくのは丸子の渡し。江戸時代、多摩川に橋はなく、交通の要衝には、全て渡し船が用意されて人々は渡った。例えば、二子の渡しは、大山道。大山詣での旅人は船に乗って対岸へ。同じく、丸子の渡しは、中原道を繋ぐもの。 ここから江戸湾に出るまでの景色は正に雄大。多摩川八景の代表格。江戸の幹線道が多くある、この地点には渡しが大繁盛。丸子の次が「平間の渡し」。池上道と川崎を結ぶ。そして「矢口の渡し」。古戦場。新田義與を奉る新田神社参拝客が船に乗る渡し。これは今、多摩川大橋。そして東海道を繋ぐ「六郷の渡し」。 六郷の渡し 滔々と流れる多摩川はここで大きく蛇行する。目の前が川崎の宿。家康は、初めて多摩川に、橋を架ける。大工事。一六〇〇年関ヶ原。武士は東海道からこの橋を渡って戦地に赴く。当時、六郷大橋は、千住大橋、両国橋を合わせ、江戸の三大大橋となる。ところが蛇行している故に、度重なる洪水に見舞われ、流されては架けるの、繰り返し。ついに一六八八年幕府は船による渡しを決断。その後、江戸時代、ここに橋が架けられることはなかった。これが「六郷の渡し」である。多数の渡し船が常に行き交い、東海道を旅する、客で一杯。船頭数は二十八人に及ぶ。 ■3 雪旦:江戸名所図会:六郷渡場:対岸は川崎の宿。 次が「大師の渡し」である。川崎江戸湾沿いの大師河原にある川崎大師への参詣客は多く、人々は葦の原を通って船に乗り川崎に渡る。今は、大師橋。そして最後が「羽田の渡し」である。 目の前に江戸湾が開け、遠く房総半島、浦賀が霞んで見える。絶景。大型帆船、荷船が漂い、羽田弁天の先端には、常夜塔が灯る(燈台)。海にせり出た広大な干潟は、潮干狩りに最適。ここでは鳥が無数に飛び交い、海洋生物の宝庫である(一部は現在も)。 ■4 広重:はねだのわたし弁天の社 羽田の渡しの行く先は、川崎大師。大師河原から海まで塩田があった。江戸時代、多摩川は漁獲、農産物、建設の砂利採掘、飲料水の提供、豊富なミネラル成分を江戸湾に提供し海苔栽培の宝庫。正に、母なる川であった。