■1 大川(隅田川)小名木川 大川(隅田川)河口 舟は両国橋を潜って江戸湾に向かう。巨大な橋、両国橋。まさしく武蔵国と下総国を結ぶ両国橋。長さ九十六間(約二百メートル)、幅八メートル。幕府は、それまで千住大橋以外の橋造りを禁止してきた。一転、一六五九年両国橋を着工。その理由は一六五七年の明暦の大火。逃げ、行き詰まった大勢の人が焼死。従って、橋と同時に両サイドに広い火除け地、広小路を設ける。 大きな橋を潜ると、右手、芝居小屋の幟が高く立ち並んでいる。広い両国西広小路は、火災の恐怖が失せるとともに、いつしか芝居小屋や見世物、催し物、茶店で一杯になる。しかし、いざという時にはすぐに撤去できる簡易小屋が立ち並ぶ。後年、江戸っ子は両国橋と言えば、この広小路のにぎわいを思い浮かべるほどになる。橋の左側、東広小路を見ると、雰囲気はまるで変わり、御家人屋敷で閑静そのもの。回向院の大屋根瓦が一際目立つ。右側、芝居小屋の幟が絶えると薬研堀。漢方薬を碾く道具、薬研に似たV字型掘削の堀。その名に、ちなんだ大木唐辛子屋が大繁盛、江戸の名物になる。ここからが本来の「大川端」。背後には武家屋敷が建ち並んでいる。ここで、舟の左を見ると大きな運河を目にする。竪川という。竪川は一六五九年に掘削された大運河で、江戸城から見て縦に掘られた運河なので「竪川」と命名。この運河は、江戸期、材木の運搬に大活躍した。大川の入り口に、「一つ目の橋」が架かっている。そしてこの橋から江戸湾に向かって大きな倉庫が十四棟も続く(約五千坪)。これは偉容な光景である。これが、幕府専用の御船蔵。船の収容施設だ。しかし、将軍専用の巨大な軍船「安宅丸」は、収容しきれず、倉庫群の前に係留されていたようである。 細長い御船蔵群の前には、寄州が広がっている。寄州とは、土砂が風、波で吹き寄せられてできた州のこと。これは風情ある川の自然美をもたらすと同時に、船倉の防波堤のような役割を果たしていたと思われる。 この竪川を挟んで、地名は本所から深川へと変わる。この辺りは、御家人と町民の家宅が混在している。御船蔵が終わると、そこに新大橋が架かっている。この橋の建造は一六九四年(元禄六年)。隅田川に架かる三番目の橋となる。江戸庶民の嘆願に基づき、将軍綱吉が建てたもので、長さは百十六間(二百八メートル)。芭蕉庵に住まいしていた松尾芭蕉は、新大橋の完成していく様を見て、こう詠んでいる。「ありがたや いただいて踏む はしの霜」。庶民待望の架け橋であった。芭蕉の住まい「芭蕉庵」から工事の様子が十分に見られた筈である。 小名木川 芭蕉庵から横一線に伸びる運河が小名木川である。家康の江戸造りは、湿地帯の埋立て、領地拡大策と物資運搬の運河造り、から始まった。彼は、一五九〇年江戸入府と同時に日比谷湾に流れ込む暴れ川、平川の流れを遮断し、東、つまり隅田川方向に変える。そのため、道三堀と日本橋川を掘削。隅田川に出た処で、対岸の湿地帯に運河を掘る。これが小名木川である。開削工事の責任者は、小名木四郎兵衛。この運河は重要な使命を持つ。まず、第一は、急激に膨れる江戸民への食糧供給。当時、行徳は良質な塩の名産地。そこで、行徳の塩田から塩を運ぶ安定ルートを造る。第二には、人も住まない湿地帯(深川)を遮断し、陸地に変え、海に向かって埋立、領地拡大の橋頭堡とする。こうして武士、江戸庶民、寺社が流入し、深川を形成。後に、深川は立派な江戸の中核と化す。全ては、この小名木川の開削から始まったのである。深川の開拓責任者は深川八郎衛門。周辺の湿地帯を陸化し、さらに海に向かって海辺新田を造成。小名木川は当初、塩のルートであったが、後には農産物運搬に拡大。江戸庶民になじみ深い小松菜、果ては東北地方からの年貢米の輸送ルートになる。さらに成田参詣客など人々の運搬ルートとなり、行徳船や長渡船(十五〜二十四人乗り)が頻繁に行き交うことになる。 小名木川周遊 芭蕉庵を左に曲がって小名木川に入る。様々な舟が行き交っている。万年橋を潜る。前方を見ると運河は真っ直ぐ延びている。右側、海辺新田、大工町、そして霊岸寺。左側は、大名下屋敷。すぐに、南北一直線の大横川(江戸城から見て横一線)にぶつかる。これを突っ切り真っ直ぐ。右手、海側は海辺新田が多くなる。左手は御家人などの武家屋敷。狭い九鬼の下屋敷。ここに五本松があった。広重の時代は一本松。小名木川に被さるように枝がでている。下を通るのは行徳船。五〜六人の客を乗せ、行徳に向かっている。船頭は二人。左は家並み、右は自然風景。それぞれ道があり、人々の歩く姿も見える。 ■2 広重:小名木川五本松:前方が行徳方向 すると直に南北の堀、南十間川の十字路。左は川沿いに深川大島町の民家。右には八右衛門新田や久左衛門新田が広がる。これらは埋立新田開発者の名を取っている田圃。ところ処に大名の抱地が点在。なんにしても広々とした田園風景。やがて亀戸村の田圃が目につくようになり、広い南北に流れる中川に到達する。そこを中川口という。広重はこの光景を見事に描写している。中川口の左に中川御関所、中川番所がある。船番所である。ここで荷物や通行人がいちいちチェックされるのである。小名木川はここまでで中川の対岸に描かれている川が船堀川である。処の人々はこれを行徳川と呼んだ。これを直進すると江戸川にぶつかり、そこが行徳。これも小名木川と同時に掘削された塩のルートで新川ともいう。 中川もその昔、利根川であった。氾濫を繰り返すため銚子に瀬替え。関宿から支流とした。これが中川。従って東北方面からの物資を利根川へ運び、中川へ。小名木川経由で江戸に運ぶことが可能になった。広重、中川口の絵の中央に描かれ、材木乗りが巧みに運んでいる。 ■3 広重:中川口:左下に舟番所。中央左右に中川。前方、船堀川 大川河口 小名木川を戻って再び大川へ。大川の川幅はぐんと広がり、正面に中州が見える。中州とは土砂が堆積しているところ。家康が江戸に入府した頃には、この辺り、もうすでに江戸湾で、島が二つあった。掘削した日本橋川はここに流れ込み、塩運搬のルートは対岸の小名木川へとほぼ直行していた。その後、二つの島は埋立が進み、広大な箱崎島(町、大名屋敷)と霊岸島が形成される。大川は、箱崎の先端で二つに分かれ、これに中州を挟むと三つに見える。そこでところの人々は、この辺りを「みつまた」と呼んだ。葦が茂り、生物の宝庫、鳥が舞う中州の自然美と合わせ、中秋の名月を見る舟で賑わった。箱崎の北端を行く箱崎川を行く。右岸は新大橋からの大名屋敷。浜町堀が川口橋を潜って流入し、それから蛎殻河岸が続く。蛎殻町の細い町並み。そして行徳河岸。そこに日本橋川が小網町を経て、流れ込んでいる。行徳に行く人々はここから舟に乗り込む。左は箱崎町の町並みと大名屋敷である。 ■4 広重:みつまたわかれの淵:中央に中州、富士の下に箱崎川への入り口、右に大名屋敷が描かれている。 箱崎の整備の結果、大川の本流は今の幅になり、ここに深川と繋げる永代橋が架けられる。 この橋は、元禄十一年(一六九八)、将軍綱吉五十歳を祝う記念事業として架橋され、当時の名刹、広大な深川、永代寺にちなむ。 これから先、霊岸島の南、海上に、埋立拡張、整備された石川島と、これに寄り添うように佃島が浮かんでいたのである。