■1 本所・深川水路―竪川・大横川― 本所・深川水路―竪川・大横川― 江戸期、本所、深川一帯には、碁盤の目のように縦横に運河が張り巡らされ、人口流入にともなう都市化が進行している。 だが、一五九〇年、家康入府時には、波や洪水に洗われている葦の湿地帯で、面積も江戸後期と比べると格段に小さく、人が住めるような処ではなかった。家康は、まず、江戸湾沿いに小名木川を掘削する。そのちょっと先には江戸湾の波がきている。そして行徳から塩を江戸に持ち運ぶことに成功する。小名木川の位置は変わらないのでそこまで波が来ていたと言うことである。掘った後出る大量の土は、周辺の湿地帯埋立てに再利用。人が住める土地に変えていく。しかし、川の洪水で水浸しになってしまうのでは元の木阿弥。そこで利根川本流を銚子に持っていくなど瀬替え大工事が延々と続く。運河を掘っては、その土で埋立て整備。本所、深川はこうしてできあがっていく。さらに小名木川から先の江戸湾の浅瀬をどんどん埋立て、江戸期の深川が形成され、深川州崎十万坪まで領地を広げる。深川八郎右衛門は、家康とともに摂津(大阪)から移住。彼は恐らく漁民であったと思われるが、家康に見込まれ、責任者として埋立て大工事に大きな業績を残す。ために、地名は、彼の名を取り、深川と呼ばれるようになる。 こうして当初は、簡素な漁村にすぎなかった深川は江戸の重要な一角となっていく。しかし、本所、深川の爆発的発展の最大の動機は、なんといっても一六五七年の明暦の大火である。江戸城まで含め江戸は灰燼と化す。人々は家を失い、本所、深川に移住。まず、町民から。そして旗本、御家人クラスの武家が。 大火で逃げて来た人々がここで立ち往生。大川に橋が一本も架かっていなかったため。そこで手始めに幕府は大川に初の大橋、両国橋を設ける。両側には広い火除け地を。両国橋は、人々の往来と物資運搬に大きな業績を残す。正に、武蔵国と上総の国を繋ぐ両国橋。この時点から急ピッチで縦横に掘りを掘削。掘削土は土地整備へ、生活物資の運河とする。紀伊國屋文左衛門の登場。建築ラッシュ、材木運搬の拠点となす。彼が深川に住まいしていた理由はここにある。 竪川 幕府はまず一六五九年、竪川の掘削を開始する。この川堀は両国橋の南から東西一線中川までの流路で長さは五キロメートル強。本所奉行の徳山五兵衛、山崎四郎左衛門が、始点の大川と終点の中川に狼煙を上げ、これを目印に東西直線の運河を開削したという。無論、掘られた大量の土は、本所地区埋立て整備に使われた。小名木川と平行に掘削しており、江戸城から見ると縦に流れているので竪川と命名。その後、物資運搬船、観光客船の数は膨大となる。 江戸湾に向かって両国橋を潜ると直ぐ左手に竪川の入り口がある。最初に目につくのが一つ目の橋(大川沿いに南北に走る本道を通す橋で人通りも激しい)で、この橋を潜ると両側は連綿と河岸(荷物の揚場)が続く。すぐ、二つ目の橋。そして等間隔で三つ目の橋。すると南北に流れる大横川にぶつかる。ここまで両岸とも河岸が続き、河岸の背後に町人町、さらに旗本・御家人の家宅が密集している。さらに直進。四つ目の橋。人口はぐっと少なくなるが、川の両側は町人町。まだらに武家屋敷。亀戸村の田畑が目につくようになる。そして橋の右側には、五万五千坪に及ぶ、猿江御材木蔵が展開される。きっちり仕切られた巨大な人工池におびただしい数の材木が浮かんでいる。これを過ぎると、亀戸村、小梅村などの田圃風景。五つ目からは橋は無く、両岸の繋ぎは、舟による渡し場。さらに進むと六つ目の渡し場があり、左を見ると浅間社の亀戸富士が田圃の中に聳えている。そして大河、中川に出る。対岸を見ると西小松川村の広々とした田が広がっている。ここまでが竪川。広大な材木蔵に象徴されるように材木筏が中川経由で竪川に入り、当初、材木運搬路として栄え、次第に成田や鹿島詣での旅客で賑わうようになった。 大横川、源森川、曳舟川 大川沿いにある、水戸中納言蔵屋敷の南沿いを走る川が源森川。距離は、短く、材木の引き入れに掘削された。水戸屋敷が終わると右に急展開、南に一直線。その角に業平橋がある。そして、その曲がり角から東北方向一直線、水戸街道沿いに流れる細い川がある。これが曳舟川で先行き、四ッ木村を通る、四ッ木通用水。もとは深川方面への飲料用水路であった。この用水が禁止されてもっぱら柴又の帝釈天詣での参詣客を舟で運ぶ通路に利用されるようになる。広重は、四ッ木村辺りの光景を描く。題して、「四ッ木通用水引き舟」。曳舟。なんと船頭は舟にくくりつけた綱を曳いて水戸街道を歩いているのである。用水の流れは早いので艪を漕ぐには不向き。そこで考え出された曳き舟である。常時、十四艘の舟が往復していたという。客はお金持ち。引き手は近くの農民。副業で女も曳いたという。 ■2 広重:「四ッ木通用水引き舟」:船頭は綱を引いて水戸街道を歩く。田園、点在する農家と前方に筑波山が描かれている。 曲がり角に戻る。業平橋を潜って真っ直ぐ南下。ここから川名は横川となる。竪川に対して横川と命名。右を見ると町人町、左を見ると小梅村の田に混じって大名の抱え屋敷や寺が点在。北割り下水を通過すると法恩寺橋。右側町人の家宅に続いて旗本、御家人の家宅が密集。左側も旗本御家人屋敷が多くなる。すると東西に流れる南割り下水。通過。長崎橋。川名も大横川となる。左右、町人、武家屋敷とも正に密集。当然、両側とも河岸(荷揚場)が連なるようになる。右側、時の鐘を通過すると東西に流れる堅川に到達。南辻橋を潜ってそのまま南下。右、本所菊川町と武家屋敷密集。遠山金四郎の抱え屋敷も見える。菊川橋を潜ってさらに南下。程なく小名木川に到達。 この大横川の掘削も竪川と同時に開始される。一六五九年。工事責任者も徳山、山崎の両名。掘削した土は、埋立てや整地に使われている。それから約四十年後に小名木川から海に向かって南へと掘削される。家宅が密集してくれば、生活物資の供給量も増える。往時、荷足船百八十五艘を始め肥船、漁船など多種多様な舟が数百隻、利用する幹線水路となった。