■1 本所・深川の河川ー北十間川・横十間川ー 本所・深川の河川ー北十間川・横十間川ー 北十間川 竪川と大横川と同様、江戸城から見て縦横に流れる川が北十間川と横十間川(十間川、南十間川)である。北十間川は、隅田川(大川)と中川を東西横一線に結ぶ河川で位置は本所の北側にある。大川、水戸屋敷の南沿いを流れる源森川がそのまま中川に向かって横一線の流路。 北十間川も明暦の大火(一六五七)後の本所開発に伴い一六六三年に開削された農業用水路で、工事責任者は竪川と同じく徳山重政、山崎重政の両名。しかし、その後、大川増水時に源森川から入ってくる洪水の被害が度々、発生したために、一六七二年、源森川の先を一部埋立て、くの字に南に曲げ、洪水を大横川に流すようにしたのである(現在は直通)。 それでは、江戸時代の北十間川を辿ってみよう。源森川が直ぐ終わり、右に業平橋。正面、埋め立て地をちょっと歩く。周囲は、小梅村の田圃。すぐに細い流れがある。この流れに北の曳舟川から取った細い農業用水が加わる。柳島村。すると右側に妙見大菩薩、法性寺がある。江戸っ子に愛され、通称、妙見様。右に、南へと下る横十間川が見える。 北十間川は、妙見様から、文字通り、幅十間(十八メートル)に広がり、東へ直進。周囲の風景が、柳島村の田圃から亀戸村の田に変わると、右に梅屋敷が見え、まもなく中川に出る。北十間川は農業用水路として開削されたが、次第に物資運搬路(材木など)、遊覧客の運搬路としても利用されるようになる。 南十間川(十間川) 北十間川の妙見様を右に曲がれば横十間川。曲がり口に柳島橋(又兵衛橋)が架かっている。潜って南に一直線に降りる川が横十間川。これも江戸城から見て横に流れるからついた名。柳島橋のたもとに有名な料亭「橋本」があった。会席料理で有名な風格ある店である。妙見様参詣と「橋本」の味を目指して多くの人々が江戸から横十間川を上がってくる。大賑わいである。風光明媚。広重はここを描いている。柳島橋のたもとに遊覧船が着く。土手の石段を登ると妙見様の赤い塀。参拝。次に右隣の料亭「橋本」へ、といった案配。前を見ると北十間川、その先は広々とした田園、そして筑波山を拝むことができた。広重の先輩、葛飾北斎も妙見様の熱烈な信者で、ここで霊感を授かって雅号「北斎」を名乗るようになったという。また歌舞伎役者、初代中村仲蔵も妙見様に日参し、あの忠臣蔵、定九郎の役作りのヒントを得たという。落語、「中村仲蔵」。それまで忠臣蔵五段目、定九郎は、どてら姿の、山賊の出で立ちで、さえない。話しもつまらないので当時の観客は、弁当を広げる始末。この役を宛がわれた、仲蔵はこれを見せ場にするにはどうしたら良いか、必死に考える。そして妙見様に願をかける。満願の日、途中で雨に降られ、「そばや」で雨宿り。そこへ、いなせな浪人風の武士が駆け込むなり、蛇の目傘の滴をぱっと払う。月代の滴を拭い、そのかっこよさ。これは妙見様のお告げだ。彼は妙見様に飛ぶように行くと満願を果たし、浪人そっくりに役作り。当日、この場面になると客はいつものとおり、弁当を出し、ざわざわ。そこへ、いつもと違う身なりの定九郎が水をぽたぽた垂らしながら駆けだしてくる。そして見栄を切り、たった一言、「五十両」。そのかっこよさ。客はシーンとなる。「どうだいあの定九郎は」。大評判。忠臣蔵を代表する名場面に変貌したのである。 ■2 広重:柳しま 左、塀で囲まれた妙見様。絵の中央、横に流れる北十間川。絵の下、縦に流れる横十間川。柳島橋を渡ると料亭「橋本」。絵の左上、遠くに筑波山が見える。 ■3 (少し縮小して入れる):妙見様の賑わい。 横十間川を南に下る。左に萩寺として有名な龍眼寺が見え、右側は、小大名の抱え屋敷が連なる。過ぎると、左に弘前藩津軽越中守の広い屋敷。続いて有名な亀戸天満宮。そこに架かるのが天神橋。潜ると、川沿いに亀戸町人町の家並み。そして旅所橋。目の前に竪川が流れている。竪川を突っ切ってさらに南に下る。すると右側は、全て広い「猿江御材木蔵」。広大な網の目のように貯蔵池が張り巡らされ無数の材木が浮かんでいる。そして家康が最初に掘削した、小名木川に出る。したがって、小名木川から入り、横十間川を北上、妙見様や亀戸天満宮に参詣するという江戸っ子が多かったようである。 深川、仙台堀―三十間川 小名木川から南は、江戸湾の浅瀬、埋立てにより造成された町であるから、上から見下ろせば、正に、張り巡らされた川(堀)の間に町が浮かんでいるといった光景である。東洋のベニスの感。江戸時代日本を訪れた外国人は、イタリア、ベニスの景観と重ね合わせ、その美しい景色に見とれることになる。 仙台堀 再び、舟に乗り、大川を南に下る。左、小名木川の入り口に万年橋が見える。大川の中央に中州が広がり、ここも風光明媚な光景で、月夜の名所。小名木川を過ぎると深川清住町の町並みに続いて仙台藩伊達家の蔵屋敷がある(五千四百坪)。ここは、いわば、伊達藩の物資貯蔵所である。その南縁を東へと流れる川が仙台堀である。開削は寛永年間(一六二四〜四四)と言われ、幅約二十間。当初は、おいしい仙台米や建築用木材を蔵に運ぶために掘削されたものである。舟を仙台堀に入れる。上之橋を潜る。川の両岸には仙台河岸が続く。左を見ていくと、仙台藩蔵屋敷に続いて大名の下屋敷があり、久世大和守(千葉)下屋敷で終わる。すると海辺橋。そこからは、広大な霊岸寺と子院の屋根が連なっている。これが終わると亀久橋に出る。ここまでが仙台堀で、これから先は川幅三十間になり、名称も三十間川に変わる。右側に、広大な材木貯蔵場、深川木場の光景が展開し、過ぎると、浜川崎橋。大横川にぶつかる。さらに新田を突っ切って南北に流れる横十間川まで。これが三十間川である。そして仙台堀、三十間川の右一帯、つまり江戸湾までの景観が網の目のように運河が張り巡らされた正に東洋のベニスと呼ばれる風景なのである。