■1 水の都 深川永代 深川 東洋のヴェニス 仙台堀から江戸湾までの深川は正に東洋のヴェニス。網の目のように広がる堀の狭間に町が浮かんでいる、といった景観である。正しく江戸湾の浅瀬を埋めて、水の都を醸成した、の感がある。ここに人々が密集し、活気に溢れ、町民、武士、神社仏閣が混在する、美しい水の都。日本橋に代わる材木蔵、「深川木場」の創出。これを軸に、経済活況を現出。そこには、新たな江戸文化が創出されることになる。当初は、猟師が住み、江戸湾の魚介類などを収穫した典型的な深川猟師町八か村で始まる。それが、明暦の大火や一六四一年の桶町火事(日本橋桶町から出火。家屋一千九百戸以上焼失、死者数百人。これを機に府内三十五町に散在していた材木置き場を永代島に移転命令)で、江戸の町は焼き尽くされ、大川を挟む安全地帯へ、人口移動。経済面では江戸の復興に欠かせぬ建設資材、なかんずく材木の収集拠点、流通販売が発展。貯木場は、日本橋から木場へ移転。紀伊国屋文左衛門の活躍。材木運搬に欠かせぬ運河が網の目のように張り巡らされた理由もここにある。そして次第に様々な物資の「蔵の町」として発展。文化面では、広大な永代寺門前の門前仲町に芸妓が集まり、三味線の音が鳴り響き、通称、深川八幡宮(江戸期、富ヶ岡八幡宮)の祭りは江戸三大祭りに発展する。 油堀 仙台堀の大川口に架かる「上之橋」。この下に中之橋。さらにその下に「下之橋」が架かる。この下之橋から東へ、広大な新材木集積地、「深川木場」に直結している運河が油堀である。永代寺から木場までは通称「十五間堀(二十七メートル)」とも呼ばれる(現在、首都高速9号深川線)。そして大川、中之橋から入った流路は、町を鍵型に割って、仙台堀から南へ江戸湾まで流れる油堀西横川に出る。大川側を何故、油堀というのか。油問屋が集中していたからである。 深川佐賀町 江戸東京資料館には、この町の模型が展示されている。主として大川沿いに集中しているこの町は、早期の深川八猟師町の一つ、藤左衛門町、次兵衛町が元禄八年深川佐賀町となった。肥前の国、佐賀湊に地形が似ているというところから付いた地名である。大川沿いに永代橋まで続くこの町は油問屋、干鰯問屋、米問屋が集中し、蔵の町でもある。長屋には、木戸番が置かれ、夜十時には木戸が閉められる。自身番屋、高い火の見櫓が立ち、小舟が至る所に岸付けされており、三井越後屋の大きな貸蔵もある。 下之橋を潜って油堀に入ると佐賀町を過ぎ、左、堀川町右、加賀町となり、左岸には、油堀河岸が続く。右、一色河岸から右に折れ曲がると富岡橋。潜ると左一帯、仙台堀まで九寺が連なり、永代橋事故の死者を弔った海福寺もある。堀沿いに陽岳寺と八十八カ所札所、閻魔様で知られる法乗院の屋根が見える。陽岳寺は、代々、船手頭として江戸湾を守った二代目向井将監忠勝が勧請した寺。無論、彼の墓もある。 これが過ぎると、仙台堀からの入堀と交錯し、流れは左に折れ、十五間川となり、右手に広大な永代寺、深川八幡(富岡八幡)の境内が続く。つまり、油堀は広大な永代寺、富岡八幡の北側縁を舐めるように走っていたのである。 永代寺 当初、この辺りは、深川永代島と呼ばれていた。孤立した島であった。埋立が進み、ここに深川八幡の別当寺として永代寺(高野山真言宗)が建てられる。幕府の加護もあり、後に、大伽藍を擁し栄えた。多くの人が行き交うため、境内に江戸六地蔵が建てられ、時の鐘もあった。それが、明治の廃仏毀釈で廃寺となり、跡地は深川公園、深川不動となっている。永代寺の門前町として栄えたのが門前仲町である。 ■2 広重「深川八幡山開き」広大な永代寺の庭園 永代橋 架橋は元禄十一年(一六九八)。将軍綱吉五十才を祝う橋。長さ百二十間余。上野寛永寺建造の余材も使ったとも云われる。位置は現在の永代橋より北側、日本橋川と直結している。元は「深川の大渡し」があったところで、深川の発展につれ、交通の要衝として建造される。名称は永代島、永代寺から。吉良上野介の首を掲げた大石内蔵助一行が加賀町で休憩を取った後、この橋を渡り、泉岳寺に赴いたことで、話題となる。文化四年(一八〇七)、深川八幡祭礼に詰めかけた群衆の重みで東側数間ほどが崩落。死者千四百名という途方もない大惨事を招いた。大田南畝「永代と架けたる橋は落ちにけり、今日は祭礼、明日は葬礼」。 深川八幡(富岡八幡) 江戸最大の八幡様で別当の永代寺と当然地続きである。江戸っ子は深川と言えばここを想起する。深川八幡の祭礼は江戸三大祭りとして有名。巨大な御輿が練り歩き、清めの水を御輿にかける。通称、水掛祭り。創建は一六二七年(寛永四年)。菅原道真の末裔といわれる長盛法印が永代島に創建。徳川将軍家の保護を受け、大伽藍に。江戸勧進相撲発祥の地で今日も多くの記念碑を残す。深川八幡、永代寺領をぐるりと囲む堀が油堀十五間川と繋がっている。川沿いに八幡の深川富士が聳え、この囲み堀の次の一郭が永代寺門前東仲町。そこに三十三間堂があった。京都三十三間堂を模した建物で、当初、浅草にあったが火災で焼失。元禄十一年に当地に再建。京都と全く同じ通し矢で有名。 ■3 広重「三十三間堂」:遠景に深川木場の材木が浮かぶ。 油堀十五間川はここを過ぎると南北に流れる三十間川にぶつかり、これを超すと広大な深川木場に直結する。 永代寺門前町 深川八幡(富ヶ岡八幡宮、今、富岡八幡)の細長い参詣道を出ると、馬場通(永代通り)。そこに大きな鳥居が立っている。これが二の鳥居。西にちょっと歩くと堂々たる一の鳥居が立っている。江戸一番の大御輿の通り道。沿道に茶店が密集し、大賑わいになる。永大寺門前仲町、永大寺門前山本町、永代寺門前町、深川黒江町(門前仲町、富岡町)に人口が密集し、至る所に岡場所ができる。「岡」とは傍系の意味。つまり格式高い、「吉原」傍系の遊郭ということ。日を追うごとに江戸最大の岡場所に発展する。そのとき遊女数四百七十二名。 そして岡場所とは異なる花街ができる。材木問屋が商談する場合、かならず芸妓が入る。これが辰巳芸者。辰巳とは江戸の東南にある花街の意味。日本橋の人気芸者が深川に居を移したことが発端となり、天保の頃には二百六十一名を数える。辰巳芸者は、芸は売っても色は売らない心意気を持ち、気っ風が良く、情に厚い。芸名も「音吉」、「蔦吉」、「豆奴」など男名前を名のった。これが人情に厚い粋な職人達に大受けする。 この辺り、芝居、時代小説に欠かせぬ舞台で、柴田錬三郎の「御家人斬九郎」の相棒、「おつた」も辰巳芸者で事件の解決に一役買う。深川は、斬九郎の活躍舞台でもある。歌舞伎狂言の「名月八幡祭り」の主役は、辰巳芸者「美代吉」。「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵もしばしば八幡様を訪れる。 ■4 歌麿の「深川の雪」辰巳芸者 大島川 最南端の巨大堀が大島川で幅二十間(三十六メートル)。今日も堂々たる流れを見せている。最早、江戸湾(大川河口)と云って良い深川越中島と深川相川町、中島町の間を割って入り、東へと流れ、永代寺門前町の直ぐ下を通り、三十三間堂のところで北から流れてくる三十間川と合流する。三十間川の汐見橋を左に見て、材木置き場を、さらに直進すると平野川となり、広大な深川木場の底辺沿いに流れる。云うまでもなく、大島川も材木運搬の重要な河川である。大島川の南は、海辺新田に続いて平野川の底辺に深川州崎十万坪があり、その先は江戸湾、深川沖の茫洋たる海景色となる。