■1 江戸川(利根川) 江戸川(利根川) 家康は一五九〇年、江戸に入府すると早速、大規模な新都市構想に着手する。江戸城建設、家臣の屋敷、大量人口移入の住居、産業地帯の造成。食糧増産地帯の醸成。木材を初めとする、食糧・物資の流通経路の開発。それが川、運河の付け替え整備、掘削の大事業である。川の掘削は今日の道路網、インフラ整備と同じ。そして食糧の中でも基本は米と塩。当時、塩は現代の石油と同じ値打ちがあった。そこで下総の国、行徳に目を付ける。良質の塩が獲れる、行徳一帯を大規模な塩田地帯の造成に着手。そして、行徳から江戸城まで一直線の運搬ルート、運河を掘削する。江戸城から辿ると、東へ道三堀、日本橋川、大川を渡って小名木川、中川を渡って新川を掘削する。こうして安定した塩の運搬ルートが建設された。当時は、このルートの側まで江戸湾の波が押し寄せていたのである。 家康入府以前、利根川は銚子ではなく江戸湾に注いでいた。その流れは複雑で、今日の隅田川(大川)から東へ、中川、江戸川までの低湿地帯は、大雑把に云えば、利根川の河川敷のようなものであった。頻繁に起こる洪水への対処が必要。しかしそれにもまして重要なことは、北からの物資を江戸に持ち込むための海路が十分に使えないことであった。銚子から南は黒潮に妨げられ、乗せられ、陸地から離れると偏西風に襲われ下手をすれば米国に辿り着いてしまう。家康は、二つの問題を解決する。それが江戸湾に入っていた利根川を銚子に向かわせる、いわゆる利根川東遷工事である。同時に関宿から江戸湾に落とす分流を造る。これが江戸川である。江戸川とは江戸に入る川の意味である。しかし、江戸の人々は江戸川のことを通常、利根川と称していた。雪旦や広重の絵のタイトルも皆、利根川である。そうした意味で江戸川こそ旧日の利根川そのものなのである。かくて北からの物資は銚子まで海路を使い、銚子でより小舟に積み替えて利根川本流には入り、関宿から、江戸川を使い南へ下り、横に何本も掘削された運河を活用し、江戸城まで運ぶ水路が完成する。これは画期的な水上運搬路であった。 行徳へ(行徳塩浜) 江戸湾から江戸川を遡り、利根川本流の関宿までの船旅をしよう。まず、江戸と行徳を結ぶ塩のルート。小名木川を東へ直進。中川にぶつかる。左角に中川御関所。番所渡しの舟に乗り中川の対岸に着く。そのまま新川(行徳川、船堀川)に入る。新川を真っ直ぐ進む。この川は東南方向に南に下がりながら流れている。辺り一面、緑豊かな船越村と東西小松川の田畑が続く。どんどん行くと、やがて江戸川河口に出る。この河口を渡ると、そこが行徳である。 塩田 当時の塩浜の様子はどうであったか。江戸湾沿いに広大な塩田が広がり、あちこちから煙が立ち上っている。行徳の製法は塩田に海水を引き入れ、天日(太陽熱)や烈風で水分を蒸発させ、最後に煮詰めて完成させる。その燃料が周囲に無数に存在する蘆や葦であった。煙は小屋の塩竃に火を入れ、煮詰め作業場から立ち上っているのだ。立体長方形の塩竃の入り口に葦や蘆の枯れ木を竈にくべている職人、その脇には葦や蘆の枯れ木が堆く積み上げられている。煙は竈の反対出口から立ち上っているわけだ。この塩浜と農村を分けるように江戸湾に向かって土手道が曳かれている。そこには馬に乗る人、馬を引く人、籠に乗る人、鍬を担ぐ人、様々な人達が行き交っている。この土手道の手前は農家で、海側は塩田。江戸湾に帆掛け船が多数浮かび、遠方に上総の山々のシルエットが描かれる。雪旦の「行徳塩浜」は当時の様子を見事に伝えている。 ■2 雪旦:江戸名所図会「行徳塩浜」 ■3 雪旦:江戸名所図会「行徳塩竃の図」 江戸時代、新川は三本に枝分かれして江戸川河口に流れ込んでいる。眼前は江戸湾の入江で正面に妙見島が細長く在り、当時は江戸湾の波がここまで押し寄せていたのである。つまり、行徳の海岸線は今よりずっと内陸側にあった。海に突き出た最先端が猫実村と堀江村であった。この二村を分けるように境川が流れている。これを右に回り込むと、広大な塩浜が出現する。広重は二村を割って流れる境川を江戸湾から江戸川河口に向かって描いている。絵の境川の右側が猫実村で左側の家宅が堀江村。絵の境川の先に江戸川河口があり、大型船のマストが見える。絵の左が半島の先端。絵の下は江戸湾の砂浜の始まりである。ここでは村人が網を砂浜に埋め、餌を撒き、集まった鴨を覆い被せて捕る無双返しの猟を行っている。この砂浜を右へ回ると左に塩田の風景が展開される。中央右の森は豊受神社で一二九三年の大津波では大変な被害を蒙ったため、堅固な堤防を築き、松の木を沢山植えた。以後、津波が松の根を越すことはなかったという。つまりここが当時海岸線に近かったということになる。 ■4 広重:「堀江ねこざね」 河口から北へ 新川から江戸川河口に出るとそこはすでに江戸湾入江と云って良く、眼前に細長く妙見島がある。そこでは蘆や葦が生え、ばらばら松が目立ち、妙見様が祭られている。周囲には投網を打つ姿、漁師が活躍する姿があり、江戸湾に浮かぶ帆掛け船、千鳥が舞い、波打ち際にある小屋では人々が寛いで漁師や遠方の景色にみとれている。ここから北に向かって江戸川(利根川)を遡ろう。妙見島から北上。左を見ると新川が三本に別れて州を形成しながら流れ込んでいる。少し行くと江戸川の流れは右へ。その曲がり角に今井の渡し場がある。江戸川に架かる橋はなかった。そして此処こそ行徳の塩を江戸に運ぶ、主要な渡しで繁盛を極めた。ここは新井村。それなのに今井の渡しとは。今井とは対岸の葛飾今井村の名をとっている。つまり、特に江戸初期には、江戸と上総の境界線のニュアンスが強く、そのため渡しと云っても塩の専用ルートで上房からの一般客の舟は禁止されていたのである。一六四四年、そこに悲劇が起こる。故在って、江戸に逃げようとした男女が船頭ともに処刑される。人々は弔って石地蔵を建てる。それが「ねね塚」の悲劇である。この塚も江戸期の洪水で流されてしまったという。そこで記念碑は「ねね塚の跡」となっている。 行徳舟場 江戸川の流れは再び北に転じる。右を見ると押切村の家々。河口から川沿いに行徳街道が平行して走っている。この街道に沿って村々が続いているわけだ。堀江村、猫実村、当代島、新井。そして押切村。そこに行徳舟場がある。大変な賑わいである。雪旦の絵を見よう。下に利根川(江戸川)が流れ、多数の荷船、客舟が行き交っている。河岸。そして広場。そこら中に荷を運んできた馬が描かれ、天秤棒を担ぐ「ぼてふり」、米俵を担ぐ者、旅の一団。左右に家宅が密集し、杭打ちされている荷揚場には荷船が停泊。雪旦の絵では利根川と書かれている。人を乗せた客舟も多数。人や家並みは行徳街道に向かい、そこを歩く人々の多いこと。街道沿いには無論、家宅が密集している。行徳の繁栄ぶりが正に描かれていると言えよう。これから利根川も街道も国府台や柴又に向かって行く(絵の左)。江戸時代、行徳は広範囲で今の市川、浦安南を含んでいる。 ■5 雪旦:江戸名所図会「行徳船場」 【参考文献】 「広重の大江戸名所百景散歩」人文社 「江戸・東京の川と水辺の事典」鈴木理生著 柏書房