■1 国府台から柴又 国府台 利根川(江戸川)を北上しよう。真間川に架かる根本橋を渡り、根本村の民家を抜けると坂道になる。崖道。崖の上には木々が生い茂る。すばらしい自然の山道。そして広い丘に出る。周囲は木々が豊富だ。そこが国府台である。国府台は見晴らしの良いところで西側からは遠くに江戸城が拝め、その背後に富士が聳えている。眼下、見下ろせば、滔々と利根川が流れている。東を見れば、美しい真間の景色が眼下に広がっている。利根川に注ぐ真間川が蛇行し、砂州を形成。継ぎ橋。松並木。絶景が展開。かなたに弘法寺も見える。真間は万葉集にも登場し、江戸期にも、文学者に好まれた土地である。 ■2 江戸名所図会 雪旦:「根本橋利根川」:下に滔々と利根川が流れ、中央に根本橋。右へ蛇行する真間川。根本橋から左街道を上がっていくと国府台。 国府台城跡 丘に出ると直ぐ右手に国府台城の跡がある。太田道灌(扇谷上杉家)がここに陣屋を置いたことから始まり、戦国時代千葉氏、里見氏、北条らが覇権を競いあった舞台である。しかし家康が天下統一すると、この城を廃絶。その理由は「江戸を見渡させる」ということだが、そんなことよりも上総、下総全体を統括するために、太平洋側から睨みをきかせる戦略をとった。そこで大多喜城を拠点としたのである。ために腹心中の腹心、本多忠勝を配備。忠勝は難攻不落の堅固な城を築く。かくて国府台城は、江戸時代には城跡を残すのみとなった。面積はかなり広く、所々に石垣が残っている。 総寧寺 その城跡の北に隣接し、広大な総寧寺がある。曹洞宗のこの寺は近江にあったが家康の勧請を受け、二代秀忠が利根川本流との分岐点、関宿に移したが、度重なる水害被害のため、家綱が国府台に移設したものである。雪旦は克明に描く。長い参道。両側は木々が立ち並ぶ。大門を潜り、さらに直進するとやっと山門に出る。方形の寺域。正面、仏殿。その左に梵鐘。そして仏殿の右手に方丈が連なる。周囲は見渡す限りの森の丘。江戸時代の様子を克明に捉えている。 ■3 江戸名所図会 雪旦:「国府台総寧寺」 羅漢の井戸 国府台城の城跡の左、利根川の方へ崖道をちょっと降りていくと羅漢の井戸がある。滔々と湧き出ている清水。正方形の井戸枠。水をくむ旅人。総寧寺の僧侶の姿。天秤桶を担いで坂道を上がって行く住民。このような高台に湧き出る、貴重な命の水。この希有な自然の恵みが国府台城や総寧寺を支えてきたのである。無論、旅人にとっても命の水であったろう。弘法大師が発見したというこの井戸は近年まで飲料水として飲めた。今は飲めないが跡はきちんと祭られている。 ■4 江戸名所図会 雪旦:「総寧寺羅漢井」 再び高台に出てみよう。利根川、高い崖、鬱蒼とした森。全て戦国時代の古戦場跡である。下総の千葉氏、安房の里見氏、扇谷上杉、北条氏などによる覇権争いの舞台であった。雪旦は古戦場として此処を描く。崖下は利根川の水が洗っている。 ■5 江戸名所図会 雪旦:古戦場 古戦場の北側に明戸古墳がある。この辺り一帯には古墳が多く見られるが、国府台北側にある明戸古墳は代表的なものである。太田道灌が当地にやってきたときにはすでに石棺は露出されていたそうだが、肥沃な利根川沿いには縄文時代からの集落が沢山あったのに相違ない。 さあ、古墳の左側、利根川の方に行ってみよう。眼下に滔々と流れる利根川を見下ろす。目線を上げると、江戸の景色が丸見えである。雪旦も広重も同じような場所からこの絶景を描いている。広重の絵では「鴻の台」となっているが、これは此処にコウノトリが生息していたからである。大きな帆船が荷を積んで江戸に向かって列を成している。その先に見える山景色は丹沢であり富士である。つまり、この絵は国府台から河口の行徳の方に向かって描いているわけである。このような絶景だから江戸っ子はこぞってハイキングにやってきた。 ■6 江戸名所図会 雪旦:「国府台 断岸之図」 ■7 広重:「鴻の台とね川風景」 矢切の渡し、柴又 国府台の丘から降りて利根川沿いの街道を北に歩く。するとまもなく矢切の渡しにでる。利根川(江戸川)は全て舟の「渡し」による往来。江戸時代、一般の旅人は市川の関所を通らねばならないが、農民特権であちこちに畑を持つ農民のために渡しがあった。矢切の渡しもそれで今日も残る最後の渡しである。利根川を渡るとその先は柴又。今では、映画「寅さん」で有名な町だ。 江戸末期、この渡し場を降りると、すぐそばに川魚料理の店、川甚があった。利根川の岸辺にあり、滔々たる利根川の流れを見ながら、魚料理に酒を愛でた。文人墨客が出かけたところである。 柴又八幡神社 柴又村の歴史は古く、正倉院古文書に「嶋俣」と紹介され、数百人の村と記されている。辺り一帯は、古くから人が住んでいたはずで、村の鎮守、柴又八幡神社は古墳の跡である。この古墳は六世紀後半のもので昭和四十年の調査で石棺、遺骨、刀、馬具、埴輪などが発見され、社殿背後の嶋俣塚に納められた。江戸時代、人々の集いの場所であり、疫病退散で人々がすがった獅子頭三頭が社宝。境内には「柴又観農事績碑」が立つ。これは利根川の氾濫と大凶作で壊滅的打撃を被った江戸中期、名主が先頭に立って関東一の裕福な村にした。時の代官が感謝の褒章を与え、記念碑としたのである。この村民の精神的支柱八幡神社から西へ、利根川に向かってちょっと歩くと、柴又の帝釈天である。 柴又帝釈天 なんと言っても江戸っ子にとって柴又を馴染みとしたのは、柴又帝釈天である。正式には日蓮宗経栄山 題経寺。寛永年間に日忠、日栄によって創建。天明三年(一七八三)、中興の祖、日敬は日蓮が刻んだ帝釈天像とお題目からなる板本尊を背負い、天明の大飢饉で苦しむ江戸市中を巡る。人々はこの帝釈天にすがり、懸命に拝む。そして効験を得る。こうして江戸市中で、柴又の帝釈天は一気に有名になる。結果、帝釈天の縁日には、大挙して柴又に押し寄せるようになる。繁栄に連れ、門前町が形成される。多くの名店が、皆、この頃に創業しているのである。 門前町の参道を歩いて突き当たると、そこは二天門。入ると、左に鐘楼。そして正面に「瑞龍の松」が帝釈堂に覆い被さるようにある。この松は樹齢四百年(伝曰く四百六十年)。江戸の人々も煌びやかな門を潜って目の前に横たわるこの松に圧倒される。本堂(祖師堂)は右手にある。いつでも賑わいに満ちている帝釈天である。