■1 松戸から関宿まで 江戸川―松戸から関宿まで 舟に乗って矢切の渡しから江戸川を終点の関宿まで北上しよう。右を見ると松戸側の矢切の渡し場。左を見ると、江戸側の矢切の渡し。柴又。江戸川は滔々たる流れ。多くの帆船が運航している。周囲は茫洋とした田園の風景。広々としている。 葛西神社 左側、柴又の民家が遠くなると江戸川沿いに一陣の森。その中に格式ある葛西神社がある。この神社、平安末期の創建で柴又を含む、広範囲の総鎮守社である。しかしそれ以上の驚きはこの神社が「祭り囃し」の発祥地であることだ。なんと、江戸時代に当社の祭り囃子が、江戸中枢の神田明神に伝わり、江戸中に広まっていったというのである。今日、我々がどこの祭りでも聴く、祭り囃子は実は此処から始まったらしい。 松戸宿 江戸川をさらに北上。すると次の渡しが見える。左の渡し場が金町側、右が松戸である。水戸街道を繋ぐ渡し。金町関所で厳しいチェックを受けた旅人は渡し船に乗り、対岸の松戸宿に到着。降りると狭い街道を東に直進。すぐに九十度曲がって北に行く(江戸川にそって。現在の松戸駅の西)。道幅も広くなり、両側には宿がびっしり並ぶ。松戸宿は水戸街道、千住から二つ目の宿場となる。大名も旅人も必ず松戸宿に泊まるから賑わいも想像できる。元禄十二年には松戸宿は天領になり、本陣、脇本陣各一軒、旅籠二十八軒が軒を並べた。 雪旦の「松戸の里」を見よう。雪旦は松戸宿の江戸川沿いを描いている。多数の大型帆船が帆を畳み停泊している。大きな荷揚げ河岸があちこちに見られる。松戸は利根川と江戸川を使って大量の物資を江戸に運ぶ中継点であった。左上に江戸側、金町の関所、渡し場が描かれ、一艘の渡し船が松戸宿に向かって走っている。行き着く先は下横町渡船場だ。降りると絵の下に描かれている水戸街道の土手道を歩く。いろんな人の姿。道の両側に立ち並ぶ家々。途中「本河岸」の明示がある。江戸川沿いに幾つもの河岸があり、船が停泊している。この道の前は江戸川に注ぐ川が描かれている。これが坂川で物資運搬の運河。松戸宿を横切っていた。雪旦の絵は、松戸宿が船運の町であることを如実に伝えている。坂川にも帆船が入り込んで停泊している。雪旦の絵はここまでだがこれから先、水戸街道は、くの字に曲がり、江戸川に沿って北に転じる。そして宿の中央部分に豪華な本陣がある。水戸徳川藩士が常用するだけでなく土浦藩、笠間藩、平藩、相馬藩など十数藩が参勤交代の折、利用した。本陣の近くに御嶽権現(松戸神社)があるが、水戸光圀公が崇拝した権現社で徳川水戸が松戸をいかに重要視していたかが、分かる。それも皆、利根川、江戸川の船運を一手に引き受けている松戸宿の実態にある。船運業による今日では考えられぬほどの繁栄があった。宿場にみちびき上動尊が立っているが、これは成田山参詣の道しるべと街道を行く旅人の安全を祈願して船運業の人を中心に処の人々が協力して立てたものである。松戸宿には当然、遊郭もあった。これは特に船乗り達をもてなす女性を置いていた。 松戸の近辺に鮮魚街道の標示が見受けられる。これは銚子沖で獲れた鮮魚を布佐(我孫子市)で陸揚げし馬でここに運ぶ道のことで、松戸に集められた鮮魚はここで再び船に積まれ、江戸川を使って、日本橋に送ったのである。しかし、特に夏、陸路は傷みやすいので銚子から利根川本流、関宿から江戸川下りで日本橋に運搬の主コースが使われる。ともかく家康が利根川の東遷事業を行い、東北からの膨大な物資、海産物の運搬路を完成させたことは、江戸の繁栄に直接寄与したのである。松戸はその象徴的存在であった。 ■2 雪旦:江戸名所図会:「松戸の里」:上に滔々と流れる江戸川(利根川と書いてある)。左上対岸の金町関所から左下、船着き場に向かう渡し船、下に水戸街道が描かれ、その上に、横に流れる川が坂川。此処にも船が入り込んでいる。全体に沢山の大型船が停泊。船運業で栄えた松戸の雰囲気が感じられる。 流山 松戸を越すと流山である。見渡す限りの農地、山林。石器時代から人が住み、縄文期には東京湾の水位が上がっていたので海辺となり貝塚が多数発見され、奈良時代には製鉄の跡も見られる。江戸時代は幕府の軍用馬名産地。白みりんの一大産地で、江戸川経由で江戸はおろか関西まで積み荷された。幕府は教育にも力を入れ寺子屋も多く、小林一茶も訪ねている。流山といえば幕末、新撰組の陣屋があったことで知られる。官軍に追われてきた新撰組がこの陣屋(流山駅と江戸川の中間)に集結。しかし、官軍の流山焼き討ちを危惧した近藤勇は自首、板橋の小塚原刑場の露と消え、ここで分かれた土方歳三は翌月、函館五稜郭で戦死する。 江戸川、松戸、流山の対岸は、三郷。広大、肥沃な農地。流山と同じく早稲米で有名であった。江戸期には何十という農村の集合体。今日、広大な水元公園や三郷放水路は、いずれも、お隣の中川と江戸川を結ぶ形でできているが、家康が利根川東遷する前の流れは、利根川本流であり、網の目のような流れになっていたことを想像させるものである。 野田 江戸川(利根川)をどんどん北上する。松戸、流山が江戸川に沿って広大だが細長い地形。それを過ぎると利根川本流まで東にも広がっている地形の野田。野田と言えば江戸時代も今も醤油の町。家康が江戸入府する一五九〇年の二十年前、飯田市郎兵衛の先祖が溜醤油の生産を始め、武田信玄に納めたといわれる。一六六一年高梨兵左衛門という人が本格的な醤油の醸造を開始。翌年、茂木七左衛門が味噌の醸造を始め、後に醤油醸造。これら一族が中心となって野田の醤油を盛り上げてきた。何と言っても江戸が広大な都市になるにつれ、野田の醤油は爆発的な成長を遂げる。なにしろ江戸川を通じて直接江戸に流通され消費されるのだから。しかし、何故、野田が醤油生産の最適地になったのか。醤油の原材料は大豆、小麦、食塩である。大豆は利根川北の茨城が、小麦は利根川沿いの埼玉、群馬が名産地なのである。これらは利根川を通じて収集できる。もう一つの塩は何と言っても行徳があるではないか。すなわち、野田の醤油は利根川水系が生んだ産物なのである。 関宿 野田の先端、すなわち江戸川が利根川本流とぶつかるところに関宿はある。ここには関宿城がある。ここは戦国時代には、関東の中心部とされ、上杉、北条のバトルが繰り返されてきたところである。関東の制圧を目論む北条氏康は「この地を押さえると言うことは一国を獲得するのと同じ事である」とまで述べている。何しろ利根川は関宿から江戸湾に向かっていたのだから。結果、氏康と氏政、氏照親子が上杉謙信の支援を受け、関宿城を守る簗田晴助を三度の攻撃で落とす(関宿合戦)。こうして北条氏が関東の制圧に成功した。特に注目されるのは氏照で利根川の水運に着目、様々な開拓に着手している。後に彼は八王子城の主として江戸一円に目を配る。しかし、秀吉の小田原城攻撃が始まり、小田原に駆けつけ、結局氏政、氏照とも割腹。八王子城は炎上。そして家康の江戸入府となる。江戸を含む関東の人々は北条の善政(年貢の低減など)に気を良くしていたらしく、その意味で家康はやりにくかったのではないかと思われる節もあるが、彼は数十倍の画期的政策で関東の人々を豊かにしたのである。関宿城は関宿藩の藩庁として家康の異父弟、松平康元の居城となり、その後は久世家が代々藩主を次いでいる。関宿といえば、太平洋戦争を終結に導いた鈴木貫太郎首相の出身地。彼はここから海軍兵学校を受験し、日露戦争を経て海軍大将になった人で、現在、関宿の生家は記念館になっている。