利根川 利根川は関八州、広い関東平野を網の目のような水系を維持しながら北から南、そして東へ、太平洋に注ぐ、日本を代表する河川である。利根川水系が肥沃な関東平野を育み、日本随一の穀倉地帯に育てた。正に母なる川である。家康の江戸造りの基本構想はこの利根川が生み出す肥沃な実りを最大限活用することを根底としている。大都市江戸は利根川が造ったといっても過言ではない。 水源地は大水上山の山頂 利根川は余りにも水系が多岐にわたるので、江戸時代には水源地がどこか特定されていない。今は分かっている。どこか。大水上山の山頂である。この山は新潟県魚沼市と群馬県利根郡みなかみ町の境目にあり、標高は一千八百三十四メートル。群馬県の北限に当たる。この山頂に行くには、普通、越後駒ヶ岳や尾瀬至仏山などから稜線を辿っていく。山頂に立つと見渡す限りの山並みが展開している。大きな雪渓がある。これが利根川の一滴を生み出す。山頂部に大きな岩。そこに「利根川水源」とのプレートがはめ込まれている。 利根川上流 細い流れは南に下る。しかし、水嵩はどんどん増し、至仏山、朝日岳、巻機山の中間に。ここは今、奥利根湖が形成されている。矢木沢ダム。少し下ると、また洞元湖、藤原湖(水源ダム)があり、そこを出ると流れは蛇行しつつ、西へ向かう。するとこの本流に谷川岳東側を流れ下る湯檜曽川が流入する。流れはかなり豊になり、水上の温泉街を抜け、沼田へ。月夜野で赤谷川が流入。この川の水量も豊富。利根川は、さらに川幅を増す。そこに東から片品川が合流。片品川は、尾瀬の南、沼田、片品村を通り、利根川に合流する極めて水量豊富な川。そこで利根川の川幅はさらに広がる。蛇行しながら、南へ下る。そして渋川。西から大きな河川、吾妻川が合流してくる。浅間山の麓、嬬恋村から発した吾妻川は万座、長野原草津口を通り、風光明媚な吾妻渓谷を形成(八ッ場ダム)。中之条で四万川を加え、さらに大きな流れとなって利根川に合流してくるのである。しばらく行くと、これまた水量豊富な鳥川が西から合流。此処にいたって利根川は大規模な河川敷を形成する。太田の東を流れ、さらに古河で北からすでに大きな河川敷を持つ渡良瀬川が合流する。凄い水量である。ここから矛先は一路銚子に向かう。関宿を過ぎたところで左から一級河川の鬼怒川が日光から流れ込んでくる。さらにちょっと行くとこれまた豊富な水量を誇る、小貝川が加わる。その上、銚子に近づくと霞ヶ浦から流れ出る、新常陸川が加わり、利根川本流は、まるで湖のような広さになって銚子から太平洋に抜け出るのである。とまあ、これが現代の本流の大まかな流れである。 家康入府以前の利根川の流れ ところが家康が一五九〇年江戸に初めて入府したときには利根川の流れはまるで違っていた。利根川本流は今の江戸川より手前で折れ曲がり、直接、江戸湾に流れ込んでいた。この流れに、横から荒川、入間川が繋がり、渦のような流れとなって江戸湾へなだれ込んでいたのである。そして渡良瀬川といえば、この利根川と縦に平行して江戸湾に流れ込んでいたのである。今日の江戸は全て、葦が茂る沼地。湿地帯。当たり前である。銚子の方は、常陸川があるだけで、利根川本流の曲がり角からずっと陸地が続き、常陸川の先端に出る。何の繋がりも無い。 河川の統合整理 家康が断行した利根川東遷事業の根本は、この利根川本流を常陸川に繋げ、銚子へ流すこと。そして江戸湾に流れ込んでいる渡良瀬川を裁ち切り、利根川に流す。そこから先、西から利根川に繋がっていた荒川を切り離す。荒川を江戸湾に向けさせ、隅田川となす。そして利根川経由の、江戸への重要な物資運搬路として江戸川を掘削する。関宿から江戸湾に向け嘗ての渡良瀬川の残留に繋げる川を掘削し、江戸湾へ。これが江戸川。もう一つ、嘗ての利根川の分流、元利根川を整備し、真っ直ぐ江戸湾に流す。これが中川。これで江戸湾に流れる三本立てが揃い、今度は江戸湾に沿って、横一線に三本を繋げる新川、小名木川を掘削し、隅田川に繋げる。こうして利根川水系を利用した物流水路網を造る。これが江戸の大都市化を推進した。一応の基礎工事が全部終了するのに、六十年余。ほぼ完成したのは一六六五年と云われる。その後も、関連工事は幕末まで続く。 伊奈忠次、忠治、忠克―親子三代 一五九〇年この地に入った家康は考えた。これは十年やそこらでできる仕事ではない。現場責任者は家康無き後も、意志を次いで実現してくれる人物。それには特殊な技能を持ち、しかも絶対に信頼できる人物であること。もっと言えば、治水の大変な能力があり、膨大な関東平野を豊かな農業、酪農生産地帯に変えられ、農村に希望を与え、豊かにしてくれる政治能力も備えた人物。そして大都市江戸の建設構想を理解している人物。こうして忠臣の中から選ばれたのが伊奈忠次である。忠次は信長本能寺の変後、家康の伊賀越えに貢献し、助けてくれた人物でもある。しかし過去に例を見ない、スケールのでかい、とてつもない大工事。伊奈家親子三代に亘る苦闘が始まる。 家康は忠次を呼び寄せ、利根川沿いに任地(埼玉県北足立郡伊奈町、鴻巣)を与え、治水奉行を含む、関東代官頭に任命する。忠次は家康江戸入府以前に、命令により関東の地政調査をしていたので、利根川の有効利用が江戸造りの成否を決めると家康に進言したものと思われる。彼は大規模洪水を常時起こし、とても人が住めるところではない行田市に大規模な中条堤を設ける。これは上流から乱入してくる水を食い止め、貯水してしまう堤防工事で、その貯水能力は一億立方メートル。今でも田圃の中を延々と堤防が続く大工事である。これで利根川の洪水がとまった。次いで会いの川の締め切り工事(羽生)に取りかかる。これが利根川東遷工事の端緒になる。その功績は、検知、新田開発、河川改修はもとより、農民に炭焼き、養蚕、製塩、桑、麻等の栽培方法も伝授と多岐に及んでいる。ここで彼の寿命は尽きる。 忠次の具体構想を引き継いだのが次男の忠治である。一六一八年関東代官頭も引き継ぐと、一六二一年、一気に父の構想、利根川東遷事業に掛かる。まず、新川通りを開削し、利根川を渡良瀬川に繋げる。つまり、江戸に流れていた渡良瀬川を遮断し、利根川に。大工事である。そして常陸川(銚子)と繋げるために、赤堀川を掘削する。途中、関宿から江戸川を掘削し、嘗ての渡良瀬川の流跡に繋げる。利根川本流となった、常陸川を広げ、広大な河川敷を、設ける。そして、もつれるように常陸川に流れ込んでいた大河、鬼怒川と小貝川(洪水の温床)を切り離し、縦に並べて利根川に落とす。双方とも、急な流れ。大変な難工事。さらに古利根川の流れを生かし中川を開削。嘗ての利根川に横から流れ込んでいた荒川を遮断し、川口から曲げ、江戸湾に直接向かわせ、隅田川となす。そして最終的な運搬路、江戸川と中川を繋ぐ、新川、中川と隅田川を繋ぐ小名木川を海岸縁に掘削し、行徳からの塩のルートとなす。かくて東北、関東一円からの物資を江戸の中枢に運搬する水路がこれでできあがったわけである。すなわち、江戸に近い利根川水系のほとんどが人工的に造られたことが分かる。 難工事に次ぐ難工事、資金不足、流路選定の難しさ、住民説得、これらを乗り越え、やり遂げた伊奈半十郎忠治は江戸随一の功績者としか言いようがない。しかし、最後に完成させたのは忠治の子、忠克でここに六十年に及んだ利根川東遷事業は一応完成する。伊奈家はその後も、幕末まで関東代官頭を引き継ぐ。これは、希有なことである。治水、生産物増産、流通の合理化に貢献。処の人々にとっては、正に、神様扱い。鴻巣市勝願寺にある伊奈忠次,忠治の墓には線香が絶えることがない。鬼怒川と小貝川が絡み洪水の温床であったところを忠治は切り離し、洪水は解消された。なんと昭和十六年、処の人々ここに伊奈神社を建立。現代に至まで、人々の感謝の念は絶えない。