渡良瀬川 渡良瀬川は、今も利根川水系最大の支流であるが、家康江戸入府以前には、利根川と並列で江戸湾に流れ込んでいた独立した大規模河川であった。江戸大都市構想の根幹をなす、利根川の東遷事業の結果、銚子へ流れる大運河が完成し、渡良瀬川は利根川に接続。それからの嘗ての渡良瀬川の流れは江戸川に変貌した。かくて大都市江戸を支える巨大な物資の運搬路が完成する。 渡良瀬川の水源はどこか。日光中禅寺湖南西にある、皇海山の山麓から湧き出た水がカーブを描いて足尾銅山の麓を巡り渓谷を形成、南へ下る。 家康は天下を統一すると、まず、石見銀山、佐渡金山、そして足尾銅山を抑える。かくて足尾銅山から採掘された豊富な銅は、日光東照宮、江戸城の銅瓦、寛永通宝などの鋳造に使われ、足尾は発展する。だが、幕末には鉱脈が尽き、生産量激減。明治になって新鉱脈発見、抜本的に異なる、銅の最新製錬技術が導入され、再び一大生産地に。足尾は大繁栄。しかし、日本初の公害、「足尾鉱毒事件」を引き起こす。初の環境問題発生。田中正造が立ち上がる。 渡良瀬の流れは足尾を出ると、庚申川、餅ヶ瀬川、黒坂石川等を加え、草木湖へ。そして草木ダムから吐き出された水は、やがて群馬桐生に入る。高津戸峡。渡良瀬川は、これまで、随所に美しい渓谷美を造りだしている。足尾から川に沿って走る「わたらせ渓谷鉄道」。美しい渓谷を楽しむために敷設された。 桐生から足利 桐生は、奈良時代から絹織物の産地として有名だが、江戸期の桐生織は、京の西陣と同格であった。渡良瀬川はこの町を突っ切って進む。良い水あっての織物産業。桐生を抜けると流れは東へ。そして足利市。 足利は、室町時代を切り開いた足利尊氏の故郷。我が国最古の総合大学「足利学校」が創設された処。関東管領所在地。渡良瀬川は、足利市の中央を横断。川の北側に隣接して足利学校はある。儒学を中心に医学まで教え、一五五〇年に来日したザビエルは「日本国中最も大きく、最も有名な板東の大学」と世界に紹介。学徒三千名。諸国から遊学の生徒を受け入れ、徳川幕府も支援。校内にある孔子廟は家綱の代に造営。 また学校の北側に、鑁阿寺があるが、これは一一九六年足利義兼が嘗ての足利屋敷の跡に建立したもの。ちなみに義兼は八幡太郎、源義家の子である。ここには今日に至も足利邸宅時代の水壕と土塁跡が残っている。 その北西には、織姫山。織姫神社がある。伝統一二〇〇年。足利織物の守り神。足利は桐生と同じく、織物の町なのだ。西条八十作詞の「足利音頭」は「足利来るなら織姫様の赤いお宮を目印に」で始まる。このように足利は圧倒的な歴史的文化を擁し、独自のプライドを持つ。 足利学校から少し行くと、河川敷はぐんと広がり、その中に城があるという珍しい光景が展開する(岩井山城、通称、勧農城。室町後期、長尾景人築城)。流れは東南に。北から袋川、旗川が合流。地名は佐野に変わる。 さらに北から才川、南から矢場川、またしても北から秋山川が合流する。渡良瀬川からこの川を登って行くと、右側に惣宗寺が見える。惣宗寺は佐野厄除け大師で有名である。足尾鉱毒事件に真っ向立ち上がった、田中正造は、この佐野の生まれである。 渡良瀬川の北が佐野で南側一帯は、館林になる。館林は、家康が四天王の一人、榊原康政を北の押さえとして任命した重要な軍事拠点。後に館林城は五代綱吉が一時城主を勤めた。 渡良瀬川はここから緩やかに東南に向う。北から三杉川が合流し、地名は栃木市に変わる。さらに蓮花川が入り、渡良瀬の河川敷は大きく広がる。藤岡渡良瀬運動公園。過ぎると流れは南に曲がる。その曲がり角に北から巴波川が流入する。 巴波川 巴波川は、栃木市の中心を流れ、江戸への重要な物資運搬路であった。町の中心部には、荷揚場、河岸があちこちにあり、川から揚がると大きな蔵が立ち並ぶ景観。代表的な「蔵の町」である。今日もなお、江戸の香り豊かな景色が展開。まさに小江戸である。 「蔵の街遊歩道」から始まる。川面を見ると、遊覧船、屋形船、形様々な小舟が浮かんでいる。船頭が案内している。江戸の蔵がずらりと並び、川縁には、行灯が行列。風情。川の両端に河岸があり、船頭が櫂を休め、客と話ししている。川には、鯉や鴨が群れ、五月には、川面一杯に鯉のぼりが立つ。江戸期の商家も残存。「路傍の石」山本有三の誕生地でもある。 家康のご遺体を久能山東照宮から日光東照宮に移す際、この巴波川が使われたという。このルートは、一六四七年に日光例弊使街道に指定された。朝廷は、日光東照宮に弊帛(伊勢神宮捧げ物)を奉納。例弊使とは、その使者。家康が日光に改葬されたときから始まる。その使者が通る裏街道を日光例弊使街道という。栃木市の中央を通る。この権威付けによって、栃木宿が設けられ、後の将軍も日光参拝の裏街道として利用したという。つまり、渡良瀬川から巴波川に入って北上したわけである。 恩川 巴波川を左に見てさらに船を運ぶと北から恩川が流入してくる。この川は渡良瀬川の系流の中でも最も大きな一級河川で河川敷も広い。渡良瀬から恩川に船を入れて北上する。ややあって右手に小山城(祇園城)、小山御殿が見えてくる。細長い広大な土地。世の中安定してから、日光墓参の将軍の陣として建てられたのが、小山御殿で、壮麗な建物であった。しかしその前に家康はここに陣を張ったのである。此処こそが歴史に言う、「小山評定」の舞台。家康の天下を決した場所となる(小山市役所)。 一六〇〇年の関ヶ原の戦い。豊臣方に味方する、福島の強豪上杉景勝を殲滅すべく、小山へ集結。そしてここで石田三成挙兵を知る。家康は将を集め、意見を聞く。福島正則、命に代えても、家康に味方して戦う。山内一豊も。関ヶ原に向かって諸将の意志の統合に成功。上杉討伐は秀忠に一任し、西に転じる。家康にとって小山評定は、大きな軍略的成果となった。 これら城山公園一帯の右側を恩川に沿って、日光街道が走っている。恩川を北へ遡ろう。日光に近づく。そこに鹿沼がある。この町は、日光東照宮建立のために造られた町である。平坦かつ木材の収集地に適した土地柄。恩川の運搬力。各地から名工が集結。重要な大工町になった。ここから東照宮の現場までは、近い。 恩川は小山北で右から姿川を、壬生で黒川を、鹿沼で荒井川を加える。黒川は行川(東照宮近く)を加える。日光に向かって、枝のように川が伸びているわけである。恩川本体の水源は、渡良瀬川水源の東側。 渡良瀬川は、恩川を加えると真南に落ち、利根川に流入する。これだけ水量のある川が重なり、利根川に入ると云うことは、この辺り一帯、洪水地帯になると云うことである。そこで現代、この地帯を全部貯水池にしてしまおうということでできたのが、文字通り日本一の巨大な「渡良瀬遊水池」である。渡良瀬川はその脇を通って利根川に入る。渡良瀬川は、大都市江戸の発展に大いに寄与したのである。川が町を造る、好例。