那珂川 徳川御三家、水戸城下町の外堀にして、太平洋に向かう、堂々たる一級河川、那珂川。家康は江戸造りと同時に十男頼宣、十一男頼房を盟主に、水戸藩を結成し、北に対する要衝の砦とする。水戸は太平洋に近く、那珂川、桜川、千波湖、涸沼川に挟まれた、最高の立地条件を備えている。水戸という地名は、那珂川の河口、水運の戸口という意味で室町時代から呼ばれている地名。家康はこの地に御三家のひとつを配備する。 治水、灌漑水路の掘削―備前堀 川に挟まれた地域に水戸城郭、城下町を造る。それには洪水を防ぐこと、つまり治水と農地開発の灌漑用水路をまず造る必要がある。家康は、この大事業をまたしても関東郡代の伊奈備前守忠次に命じる。正に、伊奈、様々である。頼宣も頼房も幼く、江戸にいる。頼宣に至っては、紀伊徳川家の始祖となる身。伊奈は桜川から南の涸沼川まで十数キロに及ぶ水路を造る。幅広く、堂々たる水路である。江戸の小名木川を連想させる。工事は、一六一〇年(慶長十五年)に完成。こうして広大な農地が醸成され、重要な船運路が出現する。水戸市の周囲を流れる川がすべて繋がり、治水の面でも威力を発揮する。家康は、伊奈忠次の功績を讃え、この用水路を備前堀(伊奈備前守忠次)と命名。そしてこの備前堀を軸に水戸は発展していく。 那珂郡を貫く農業用水路掘削 一六五六年(明暦二年)、頼房は、もう一つの灌漑用水路の掘削に着手する。工事責任者は、永田茂右衛門。彼は那珂川上流の那珂市下江戸に堰を設け、那珂川の北側を東西に貫く水路を完成する。それは取水口からひたちなか市武田まで三十キロに達するもので、那珂郡の豊富な穀倉地帯を醸成するものであった。現在、取水堰はさらに上流の小場江に移されているが水路は今日に至るもなお使用されている。 那珂川の水源 水戸市街地の北側を通る、一級河川、那珂川は堀であり、重要な水資源であり、船運路である。那珂川の水源は、那須岳。山肌を縫う幾筋かの流れが一本化され東南に下る。那須サファリパークの南を通り、黒磯、大田原を抜ける。清流である。すでに渓谷をなしている。左、小高い森が広がる。黒羽芭蕉の館がある。黒羽城址。芭蕉は「奥の細道」道中でここに滞在。当時の旅籠を再現した記念館がある。川の右側には大田原の民家が広がり、湯坂川が流れ、那珂川に合流する。弓の名人、那須与一の出生地とされ、伝承館がある。那珂川は田園を縫って南に下る。流れは、蛇行しながら、自然の風景を育んでいる。幾筋もの流れが綾なす処があり、右に那須国造碑が建つ。西暦七百年、那須国造であった豪族、那須家の遺徳をたたえる碑である。立派な御堂。徳川光圀も碑の保存に尽力している。やがて川の右側に侍塚古墳が並んでいる。ここを過ぎると那珂川は大きな渓谷を形成。さらに南下。やがて右側から水量豊富な箒川が流入する。川幅はさらに広がる。左右に那珂川町の温泉が開け、また権津川が加わる。ここら辺りにも、各所に古墳があり、古代人の生活の場であったことが分かる。今度は左から武茂川が加わる。那珂川の川幅はさらに広がり、大きな蛇行を描きながら南へ(那須烏山)。左右、山間の自然を縫って蛇行。やがて流れを東に変える。御前山を通過、ここで流れは再び南へ転じる。やがて下江戸の堰(農業用水路)が見える。すると水戸である。那珂川は大きくうねりながら水戸市中の北側を通り、海に向かって行く。船に乗って南側を見ると水戸城の隅櫓が見え、川の方向に沿って城下町が広がっている。その先には、千波湖と桜川が見える。 水戸城 水戸の歴史。鎌倉時代の一一九三年に頼朝の下命により、この地を地頭、馬場氏が賜る。以来、馬場氏は九代二百四十年継続。江戸時代、慶長十四年(一六〇九)、家康十一子、頼房が初代城主。以来、二代徳川光圀、九代徳川斉昭と続く。 水戸城は、水戸市の中心部、現在の水戸駅の北側にあり、丘陵地に建設された平山城である。北を流れる那珂川と南の千波湖を天然の堀となし、西方に向かって本丸(水戸一高)、二の丸(水戸三高)、三の丸(弘道館)と続き、その間には空堀が巡らされ、幾分、戦国時代風の面影を持つ。水戸徳川家は参勤交代を行わない、江戸定住(上屋敷は後楽園)のため、天守閣は造られなかったようである。三の丸にある、弘道館は、日本三大学府の一つで、九代徳川斉昭の創設。その教授範囲はきわめて広く、武道、水戸学を始め、文系から自然科学にまで及ぶ。 弘道館の南、千波湖寄りに藤田東湖誕生の地がある。石碑と銅像が建っているだけだが、東湖は斉昭の側用人として、弘道館設立に尽力、水戸にこの人ありといわれた人物で、水戸学の権威。極めて能吏であった。江戸の上屋敷(後楽園)近くの自邸で安政の大地震に遭遇。母親を助けようとし崩れてきた柱の下敷きになり亡くなったという。 今一度、水戸城下町を流れる河川を整理すると:まず、北、東西に流れる那珂川、南に黒磯に端を発する桜川。東西に広がる大きな千波湖(家康が北の守りを水戸に定めたとき、千波湖は、今の倍もの広さがあったという)。桜川は千波湖の北沿いをなめ、東に進み那珂川に合流する。那珂川は水戸を通過すると、直に太平洋に出るが(大洗)、その手前に右側から流れ込んでくる、大きな川が涸沼川である。 船に戻る。右手に本丸の隅櫓、城下町が展開。水戸出身の有名人は多い。画家の横山大観は、水戸藩士の長男として生まれ、終生、岡倉天心を師と仰ぎ、日本美術院に参加。その作品の凄さは語る必要なし。菱田春草とは大の親友。大変な酒豪で「酔心」の樽酒をこよなく愛した。大観の近くに、明治の大横綱、常陸山の生家跡もある。彼も水戸藩士の子である。 那珂湊へ 那珂川はくねくねと蛇のように蛇行しているが、北に盛り上がった処に隼人川水門が見える。 ここから那珂川は南に下る、右手に市中を流れてきた桜川が加わる。流れは東南に変わり、正に大河の蕩々とした流れになる。ややあって右から、中級河川、涸沼川が流れ込んでくる。水戸八景「巌船夕照」。絶景である。涸沼川は、大きな涸沼から端を発した流れである。すると、すぐ大洗。茫洋とした太平洋。左に那珂湊漁港。那珂川の水は最後まで清く、江戸時代には鮭が遡上した。水戸の地名は、「那珂川湊の入り口」から来ている。それほど水戸は太平洋に近いのである。 那珂川は関東随一の清流として知られ、流域は魚類が豊富。江戸時代には鮭が遡上する川として知られ、献上品であった。現在も鮎魚で賑わう川である。そしてその広大な流域は、古くから有数の穀倉地帯として知られていた。川魚、太平洋の漁業(支流の涸沼と涸沼川は、ニシンの南限)が豊富で、那珂湊漁港の魚市場は江戸時代から有数の規模を誇ってきた。 水戸の船運 水戸地域の物資の運搬は、十分すぎるほど水運が整っている。問題は、江戸と結ぶ物流である。通常のルートは、「那珂湊から太平洋に出て太平洋沿岸を南に下り、鹿島灘を経て、利根川経由で江戸へ」であったらしい。三代、綱条の時、内陸の涸沼と北浦湖の間に運河を掘削。直接、利根川に繋げる内陸船運の開発に着手したが、農民一揆が起き、工事は中止されたままに終わったという。