霞ヶ浦(1) 図1 霞ヶ浦 霞ヶ浦は、水戸の南から、利根川に向かって存在する数個の湖をさす。霞ヶ浦は、三つの湖で構成されている。まず、土浦、石岡から南に広がる最も大きな湖、「西浦」。地図では、この西浦を霞ヶ浦と明記、象徴させている。次に水戸、涸沼のずっと南から鹿島灘に沿って細長く伸びている湖が、「北浦」である。この西浦と北浦からの流れが南で一緒になり、流れ込む、比較的小さな湖が外浪逆浦(潮来)。 地勢 なぜ、このような地勢ができたのか。十二万年前、江戸湾を含めて、この関東平野は海であった。七万年前には、氷河期を迎え、潮が引き、陸地が現れる。その後、富士山を始め、近隣の山々が一斉に噴火。火山灰が体積。関東ローム層ができる。そして一万数千年前から、再び温暖化が始まり、潮が上昇し、江戸から水戸の近くまで、海と陸地の光景となる(縄文海進)。霞ヶ浦の各地から貝塚が発見されるのは、このためである。海の入り江みたいな環境で縄文人は、貝や魚を食していたのである。 中世の地形 図2 中世の江戸水系 四世紀から七世紀にかけて古墳時代が到来する。この地にも豪族が誕生し、ヤマト王権との接触が始まる。中世の湖と川の流れ、形状は、現在と全く異なる。西浦(香澄流海)はもっと大きく、北浦(鹿島流海)は、ほぼ同じだが、外浪逆浦(外浪流海)に至っては、東西に大きく広がっており、牛久沼、印旛沼をも含みこんでしまっている。この時、鬼怒川、小貝川は、東へ向かう、ずっと大きな流れで、今の牛久沼(外浪流海)のところに流れ込んでいたのである。外浪流海は、ここからやや細長い流れ(常陸川)となって銚子で海に出る。つまり太平洋と繋がるわけである。この地勢から察するに、当時の霞ヶ浦は、満潮時、まともに上げ潮になり、逆流、霞ヶ浦になだれ込む状況であったと想像できる。 この時、関東の主役、利根川は、同じ西からの荒川、綾瀬川の流れを加え、まっすぐ江戸湾に向かっていたのである。 利根川の東遷 家康は一五九〇年江戸に入ると、大都市江戸を構想し、物資の運搬路として、全く新たな船運路開発に着手する。それは、利根川を霞ヶ浦の流れ(常陸川)に繋げ、銚子へ向かわせる工事。これを「利根川東遷事業」と云う。その上で関宿から江戸湾に向かう江戸川を掘削、整備する。これは利根川のかつての流れを利用したもの。そして霞ヶ浦に流れ込んでいた鬼怒川、小貝川を南の利根川に直結させた。さらに霞ヶ浦の干拓を進め、牛久沼、印旛沼、手賀沼を独立させている。当時、川は現代の高速道路みたいなもの。利根川東遷を含めた、霞ヶ浦の整備は、治水、灌漑、船運。正に一石三鳥の成果をもたらす。 霞ヶ浦(西浦) 茫洋と広がる、面積百七十二平方キロの湖。限りなく美しく、のどかな風景。あの特徴のある大きな帆を膨らませた帆曳船があちこちに浮かび、漁をしている。ここには、桜川など計十七本の川が流入している。江戸時代には、鹿島灘からの海水と、複数の川の真水が入り混じった、完全な汽水湖で、ワカサギ、白魚、タナゴからウナギまで豊富な種類の漁獲を誇った。 土浦 霞ヶ浦(西浦)の北側は、二つに分かれる。西の入り江が土浦、東の入り江は、常府(石岡)。土浦は、貝塚あり、古墳あり、古代から常陸を代表する処。常府(石岡)も「常陸の国」の国府が置かれた処で国分寺の跡もある。 この辺り一帯は小田氏が治めていたが、家康は江戸に入府すると次男の結城秀康を土浦の盟主に。霞ヶ浦が一望できる土浦城(亀城)と湖に向かって城下町を整備する。その後、土浦は、江戸時代を通じて、水・陸運搬の中継地として発展していく。幕府は、土浦を重視し、水戸街道を通し、ここに宿場を設けた。本陣、宿場、商家が立ち並ぶ繁栄。水戸街道はこのあと北東に進み、水戸城の真下に到達する。こうして土浦は、陸上、物資運搬の要となる。さらに土浦は、霞ヶ浦船運の集積港となり、水戸、東北からの物資を船に積み替え、利根川に繋げる中継地、船運基地と化し、大発展するのである。結果として、江戸時代、土浦は、水戸に次ぐ規模の都市に発展した。 現代に入ると、戦前、有名な海軍航空隊基地。若い血潮の予科練の………歌にある通りの操縦訓練基地となった。これも霞ヶ浦で水上機訓練ができ、陸上では、離着陸飛行訓練ができる、日本海軍にとって最適の訓練基地としてここが選ばれたのである。 桜川が湖に注いでいる。振り返ると亀城が見える。水害時、水に浮かぶ、亀の甲羅のように見えたところから、別名、亀城。船は土浦漁港を出る。広々とした湖。やがて湖は一段と広がる。遙かに見える、両沿岸部の土手の先には、広大な田畑が広がっているはず。舟を進めて左を見ると、もう一つの入り江が見える。左に迂回すれば、常府の湊に着く。中央をまっすぐ進む。あちこちに巨大な帆をはらむ帆曳き舟が浮かんでいる様は、正に、霞ヶ浦そのものを感じさせる。遠い左岸の先に行方の家並みが点在しているはずだ。ややあって、前方に出口が見える。出ると、広い川。常陸利根川という。この川を下る。川の左は、潮来である。 潮来 まもなく、左側を見ると、潮来側から前川が流れこんでいる様が見られる。その河口は繁盛している。この川は潮来の東西を横切って鰐川(北浦)に繋がるので潮来水運の重要な役目を果たしている。河口から両サイドに蔵が並び、河岸が連なる。江戸時代、東北の各藩から運ばれてきた年貢米など各藩の河岸に保管された。潮来は大規模な中継地として栄えた。 潮来は現代では水郷の町。その、のどかで美しい景色は、すばらしい。前川河口でサッパ船(櫓を使う手こぎ舟)に乗り換え、水郷巡りを楽しもう。ちょっと行くと舟の右側にアヤメ園が広がる。美しい。まもなく、左側にきれいに整備された河岸があり、舟を下りて上がる。津軽河岸跡と、旧家磯山邸。この辺に仙台河岸もあるはず。東北各藩の河岸が集中。水戸藩が潮来を管理するようになると、水戸光圀は、「板来」(常陸風土記)を今の「潮来」に名義変更。旧家磯山邸は、明治初期の建造物で、現在の観光スポット。潮来の繁栄が伺える立派なものである。 河岸の西北に長勝寺(臨済宗)がある。稲荷山古墳(稲荷山公園)を背に縦長の広い寺域を有し、格式の高い寺社である。創建は源頼朝。ここで奥州征伐の戦勝祈願。緑の下、長い参道を歩くと、豪華な山門が見える。これは、水戸光圀が寄進したもの。さらに長い参道が続き、本堂が姿を現す。禅寺の風格。庫裡・書院には水戸徳川家ゆかりの宝物を収蔵。水戸徳川家がいかに潮来を重要視していたかが伺われる。 現代では、水郷観光の町。前川の河口から北浦・鰐川までを巡る「前川十二橋巡り」、花嫁が旧家磯山邸で衣装を整え、嫁入り舟に乗り、河口の縁結び、祈念場所で花婿と一緒に祝福される「嫁入り舟」のイベントは川端に立ち並ぶ大勢の祝福客の声援を受けて、潮来の名物になっている。 外浪逆浦 左、前川河口を見て、常陸利根川をそのまま進むと比較的小さな湖に入る。それが外浪逆浦である。この湖は江戸時代に小さくなったが、中世には、牛久沼、印旛沼まで続く、大きな湖であった。その名は、満潮時、太平洋の海水が押し上げて来る湖を意味している。豊かな汽水域の漁獲が可能で、現在でもボラ、シジミの漁獲量は茨城県第一位。湖の北側は潮来である。舟を湖面の中央に。左を見ると大きな川が流れ込んでいる様が見える。これが鰐川。もう一つの湖、北浦と繋がる水路である。