図1 霞ヶ関 東国三社 北浦 霞ヶ浦の一つ、北浦は、西浦の東に並び、縦に伸びている湖である。太平洋沿いに縦に細長い湖。空から見ると、細長いが、ぎざぎざ模様の形状。北浦も西浦と同様、江戸期から豊富な漁場として知れ渡っていた。 外浪逆浦から舟を北上させる。鰐川。左を見ると、潮来の家並み。過ぎると行方へ。右一帯は鹿島で、その先は太平洋である。鰐川は広がり、北浦に入る。右を見ると、有名な鹿島神宮の鳥居が聳えている。 西浦(霞ヶ浦)と同様にあちこちで漁師が活躍している。漁獲量は豊富。ワカサギ、白魚、エビ、シジミ。起伏に富む美しい湖である。どんどん北へ。鉾田。湖の北先端に、鉾田川や巴川が流れ込んでいる。他にも数本の川が流れ込む。満潮になれば太平洋の潮が入る。汽水湖である。 北浦湖から陸地をどんどん北上すると、水戸近くに涸沼がある。水戸藩は、この間に水路を設ける掘削工事に着手した。しかし、この工事は頓挫してしまう。だが、完成していたら、水戸那珂湊から涸沼、北浦、利根川経由で江戸までの内陸水運が実現していたはずである。 東国三社 江戸の方に戻ろう。しばらくすると、左に鹿島神宮の鳥居が見えてくる。鰐川を下って外浪逆浦湖に出る。やや丸みを帯びたこの湖を渡り、常陸利根川を下る。すると、左に息栖神社の鳥居が見えてくる。神秘的な美しい光景。常陸利根川は銚子の前で利根川本流に合流する。これが江戸時代の船運路である。しかし、それ以前の中世では、銚子から幅広い川状の海が広がり、外浪逆浦湖から外浪流海となり、牛久まで続き、南は印旛沼まで飲み込む、細長い海であった。すなわち、今の霞ヶ浦(西浦、北浦、外浪逆浦)とほぼ同じ大きさの海が東西に伸びていたのである。これらを含めた海の入り口に、鹿島神宮、息栖神社、香取神宮の、いわゆる東国三社が配置されていた。そして、この三社は、有史以前から信仰の対象であり、今では想像できないほど、朝廷の厚遇を受けていたのである。これも霞ヶ浦、外浪流海の、まさに海の都と圧倒的な神秘の自然がもたらしたものであろう。現代でも関東屈指のパワースポットとして三社巡りバスツアーなどが盛んに行われている。江戸時代に戻って、三社巡りを楽しもう。 香取神社 銚子から上流に向かって舟を進める。左、川沿いに鳥居が建っている。これが津宮鳥居河岸。江戸時代の香取神社表参道口。常夜灯があり、恒に大勢の参拝客があった。舟を下り、鳥居を潜って、神道山古墳の森をぐるりと巻いて広大な香取神宮の境内に出る。香取神宮赤鳥居を潜り、森の中を進むとやがて大きな石の鳥居。左を見ると佐原から来るもう一本の参道。ここで合体。鳥居を潜ると幅広の石段。その上に、同じく横に広がる豪壮な朱門、香取神宮総門がある。そして香取神宮の豪華な本殿がでんとある。香取神宮は亀甲山の頂きにある。辺り一帯は広大な神域の森。江戸以前ならば、ここから北眼下を見下ろすと、西へと大きな湖(外浪流海)が広がっていたはずである。 祭神は、大国主の国譲りの際に活躍する、経津主神。古くは朝廷から蝦夷に対する平定神として、藤原氏からの崇拝も受け、歴代の武家政権からは武神として崇拝されてきた。現在でも、元旦の早朝に天皇が四方拝(年災消滅、五穀豊穣を祈願して四方を拝す儀式)で遙拝する格式の高い一社である。関東を中心として日本全国にある香取神社の総本社。創建は神武天皇十八年。「常陸国風土記(八世紀初頭)」には、すでに明確に記述されている古社。源頼朝、足利尊氏も寄進し、家康は一五九一年朱印地として一千石を与えている。その後、幕府は慶長十二年に大造営を施し、さらに将軍綱吉の元禄十三年には現在の本殿、楼門を建造している。 武神を象徴するかのように、参道沿いに天真正伝神道流(香取神道流)の開祖、飯篠長威斎の立派な墓がある。彼は室町時代、香取神宮境内で剣法の奥義を極め、香取神道流を生み出す。これは、最古の剣法ともいわれ、ここから中条流、影久流、鹿島神道流などが誕生していく。鹿島神宮の塚原卜伝も香取神道流から入っているのである。 息栖神社 さて今度は息栖神社である。香取神社の参拝を終えた江戸っ子は、再び津宮鳥居河岸に戻り、舟に乗り、銚子方向に下る。左を見ると、常陸利根川が流入している。舟を転回させて、この川に乗り入れ。すでに、潮の香漂う潮流の感。前方遠くに外浪逆浦湖が見えてくると、右手に大きな鳥居。満潮時、潮に立つ、この鳥居が、息栖神社の一の鳥居である。鳥居に一礼し、上陸。長い参道を行くと瀟洒な社がある。息栖神社の祭神は、久那戸神。創建は第十五代応神天皇の頃というのだから恐れ入る。 一の鳥居の両脇に二つの四角い井戸がある。「忍潮井」の井戸。水底に二つの瓶。男瓶、女瓶。千年以上の間、清水を湧出している。男女が双方の水を飲むと縁結びが成立するというわけで江戸っ子は競ってこの清水を飲んだ。広重の「六十余州名所図会」を見ると、満潮なのであろう、この鳥居は水の中に立っている。鳥居の位置は常陸利根川のはずであるが、まるで海の潮が押し寄せているかのように描かれている。その神秘的な美しさ。また、息栖河岸は、江戸水運の要所でもあった。 神の池 息栖の社を抜け、そのまま東へ行くと、太平洋に出る前に奈良時代から有名な、「神の池」(淡水)がある。この池は、周囲の田畑に灌漑用水を提供し、コイ、フナ、ウナギ、エビなどの豊かな漁場でもあった。しかも、その景観は、奈良時代の「常陸国風土記」に紹介されているほど。昭和四十四年からの鹿島港建設のため埋め立てが進み、小さくなってしまったが、昔は今の七倍も広く、ここを訪れた江戸っ子は、海かと見間違ったに相違ない。 鹿島神宮 息栖神社一の鳥居を右に見て北に舟を進める。外浪逆浦湖に入る。右岸沿いに舟を走らす。鮫川に入る。北に。川幅は急激に広がり、北浦湖へ。右手に鹿島神宮西の一之鳥居が見える。鳥居は厳島神社のように水の上に立っている。潜って舟溜まりの河岸から上陸。参道は東南にまっすぐ伸びている。ややあって左手に緑の丘。ここに鹿島城があった。一五九一年佐竹氏によって落城するまで、約四百年間、辺り一帯を治める鹿島氏の居城。過ぎると、まもなく鹿島神宮の大鳥居(二の鳥居)が見えてくる。ここから広大、神秘的な鹿島神宮の森に入る。古木が鬱そうと立ち並ぶ参道。豪壮な朱の楼門が聳えている。潜ると、右手に格調高くも豪壮な拝殿、本殿が建ち並ぶ。左手には祈祷殿、武徳殿。参道の突き当たりに奥宮がある。これは家康が寄進したもの。本殿は、御神木に囲まれている。 鹿島神宮は全国にある鹿島神社の総本社で、宮中で天皇が四方拝で遙拝される一社。北浦湖と鹿島灘に挟まれた鹿島台地に鎮座する東北随一の古社。創建は神武天皇元年。祭神はタケミカズチ神。最も古い神社である。タケミカズチ神。天智天皇は造営しているし、大化の改新以後、朝廷の東国経営強化の精神的拠点と化す。中臣氏が大きく関与。神職に中臣姓が多いのも頷ける。以後、歴代の為政者は鹿島神宮に帰依している。家康は嘗ての本殿(今、奥殿)を造営し、秀忠は、社殿一式を造り替え、徳川頼房は一六三四年に楼門を造っている。鹿島神宮は、時には、伊勢神宮並の社格で遇された。 図2 広重「六十四州名所図会」:鹿島大神宮一の鳥居。北浦湖入り口の広々とした海のような光景。水に立つ鳥居。河岸に浮かぶ多数の舟。参道はまっすぐ大神宮に向かっている。茅葺きの家並みが立ち並ぶ。海と山の神秘の自然美。 塚原卜伝 戦国時代の剣聖、塚原卜伝は、一四八九年、鹿島神宮の神官にして鹿島氏の家老の次男坊として生まれている。父祖伝来の鹿島古流から始め、天真正伝香取神道流(香取神道流)を学び、鹿島新当流の開祖となる。鹿島神宮の境内にこもり、奥義「一之太刀」を編み出す。真剣勝負十九度、戦に出ること三十七度、木刀試合数百度、しかも無傷であった。剣聖。将軍足利義輝、武田の軍師、山本勘助も指導している。戦国時代に「剣は人を殺める道具にあらず、人を活かす道なり」活人剣を説いた希有の存在。卜伝の墓は鹿島神宮の北、北浦湖沿いにある。美しい田圃の丘沿いに、「剣聖塚原卜伝の墓」石碑が立つ。丘に登る細い参道。瀟洒な社に囲まれた自然石の墓石。背景は鬱蒼、神秘的な竹林で覆われている。