家康の全国道路網造り  ■図1:江戸時代の街道:街道網の創造 五街道に接続する主な脇往還(脇街道) 一五九〇年、家康、江戸に入府。直ちに大江戸都市造りに着手。一六〇〇年、関ヶ原の戦いに勝利。翌一六〇一年、家康は全国道路網造りに着手する。国全体の交通道路の基幹として大海道を選定、組織する(秀忠の代に命名:五街道)。次ぎに鎌倉時代から存在している多くの街道を整備し、五街道に接続させる(これを脇往還と名付ける、脇街道)。つまり、全国規模の道路網完成を意図。これは、有史以来、初の全国的道路網の創造である。これが家康の道路計画のコンセプト。 家康のねらいは、この道路網を通じて、人、物、金(経済)の流通を活発化させること。地域経済の発展を促すこと。加えて、道路網に情報伝達機能を備えさせること、であった。 五街道、脇往還(脇街道)の構築、整備、管理は、文字通りの天下普請。家康に始まり、二代秀忠が地を固め、三代家光は、参勤交代制度を導入。街道の徹底的利用、発展につくし、工事は四代家綱まで続いた。一六五九年からは、道路維持総監督の「道中奉行」が設置され、勘定奉行などと同格の権限が与えられ、道路工事の一切、道路新設・修理、並木敷、一里塚の諸設備管理、橋梁新設・修理、渡船、人足手配。宿場駅の運営管理(郵送継手、伝馬手配、現場で働く助郷など人々の監督、関連公事訴訟など)。すなわち道中関係の全業務を管理することになる。 街道のデザイン (1)道幅の設定 家康は、元和二年(一六一六)年に没する。遺訓「家康百箇条」は、道幅と道路の種類を細かく指示している。 一、大海道(五街道、大街道)六間(10・8m) 二、小海道(脇往還、小街道) 三間(5・4m) 三、横道 二間(3・6m) 四、馬道 二間(3・6m)、歩行路 一間(1・8m)、捷路(近道)三尺(90cm)、作業道三尺(90cm)とある。 後の五街道標準的横断面によると、道幅は、五間9・1mとなっている。しかし、道幅は場所によって異なってくる。例えば東海道の場合、江戸に近づくにつれ、幅六間10・8mが確保され、箱根の山間部では、幅4〜5mとなる。また、脇往還でも重要な街道は、大街道並みの道幅が確保されていたようである。 (2)並木敷の設定 道の両側に並木敷を設ける。これも家康の発想。慶長九年(一六〇四年)家康の命によって植樹開始。並木敷は、旅人を風雪から守り、照りつける陽光を遮り、優しい木陰を作り出す。街道の確保:つまり、当時は、街道の周囲が田園である場合が多く、並木敷は明確に街道を認識させる効果もあった。東海道の並木敷の幅は、九尺(2・7m)と定められ、街道の両側に敷設され、松や杉が林立。東海道の松並木や、日光杉並木(忠臣、松平正綱が二十五年間、植え続ける)が今日も名残をとどめている。幕末に日本を訪れた外国人は、一様に世界で最も美しい街道と評価。 (3)路面整備 道路面工事:基本的には、砂利と砂で路面を固める。 慶長九年(一六〇四)全国的な道路改修法発布。内容は牛馬往来の妨げとなる小石を取り除くなど細かい。 一六一二年幕府は、再度、道路整備令を発布。内容は:水溜まり、泥濘は砂石で敷固めること。道の脇に雨水が流れるようにすること。良い道に土を置かないこと。馬の蹄を痛めないように路面を整備すること・・・などである。 しかし、現実には、雨など降ると、旅人は泥濘にかなり苦労する処もあったようである。 (4)一里塚の設定 一里ごとに、道の両側に塚を設け、目印のため、塚に木を一本植える(通常、榎木、松)。一里塚は文字通り、旅人に距離を示す、里程標である。 (5)道標 大街道と脇街道の分岐点には、必ず石柱の道標が設置された。右→どこそこ、左→どこそこが刻まれていた。 宿場境や国境に、高さ数メートルの傍示杭が立てられた。これは位置や領地の境を(例えば相模と伊豆の国境)旅行者に示すためである。 (6)川の管理、橋の修理、保全 多数の川を渡る必要がある東海道。川は最大の障害であった。大河川は架橋が禁止されているため、渡舟か徒歩渡しが必要。渡舟、船頭、人足の手配が必要になる。小さな川には、大小様々の橋(石橋、木橋、土橋)が架けられた。無論、橋の修理管理は幕府御普請役の仕事である。 道路網の設定…主要幹線五街道 五街道とは、云うまでもなく、東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道。これらを国の基幹街道と定める。江戸の政治、経済、文化を各地に波及させる意味もあって、全て江戸の中心、日本橋から発進する。街道距離は日本橋道路元標を起点として計算。 五街道の概略:東海道は太平洋縁を江戸から京都まで達する街道。中山道は、同じく江戸〜京都間を山道で結ぶ街道。甲州街道は、東西二本、並行して流れる、東海道と中山道を江戸から諏訪湖の縦の線で結ぶ街道。そして江戸から北に向かう主要幹線が日光街道と奥州街道である。 (1)東海道 江戸と京都、幕府と京都御所(天皇)を結ぶ、最重要街道として、家康は、早くも一六〇一年に着工命令。全ての施設が整備されたのが一六二四年(寛永元年)という。江戸日本橋から小田原、駿府、浜松を経て京都三条大橋までの五十三次(宿)。四百九十六キロ。参勤交代で東海道を利用する大名は、百四十六家に上った。 (2)中山道 一六〇二年工事開始。東海道に次いで伝馬制を実施。施設が全て整ったのは一六九四年(元禄七年)という。日本橋から高崎、下諏訪、木曽路、草津までの六十七次(宿)。約五百八キロ 参勤通交大名数:三十家 (3)甲州街道 昔から重要な軍道で、一六一八年に官道として整備される。諸施設の完成は一七七二年という。日本橋から内藤新宿、八王子、甲府を経て下諏訪(諏訪湖の処)で中山道に繋がる。約二百二十キロ。参勤通交大名数:三家 (4)日光街道 一六〇二年整備開始。一六一七年東照宮造営後、将軍の参詣路として重要視される。諸施設を含め、一六三六年(寛永十三年)頃完成という。日本橋から千住、宇都宮を経て日光までの二十一次(宿)。約百三十キロ 参勤通交大名数:四十一家 (5)奥州街道 一六二四〜四四年寛永年間に整備・改修。一六四六年完成。日本橋から宇都宮までは日光街道と同じルート。奥州道中は宇都宮以降、白河までの二十七次(宿)。これに函館までの陸羽街道、仙台道、松前道などの脇往還が接続。全てを含んで奥州道、奥州道中とする場合もある。参勤通交大名数:三十七家 脇往還(脇街道) 脇往還は、五街道に接続する地方街道で、単純に脇道、回り道といわれるもの。古くから存在する街道を五街道に接続させ、地方道路網を完成。したがって主な脇往還は、五街道と同じく幕府が管理した。とはいえ、領地藩大名が、第一管理責任者。五街道ほど厳しい管理・運営ではなかったが、基本的には同じ幕府管理。脇往還は、結果として諸藩の経済や文化発展に大きく寄与することになる。 脇往還の道幅は、通常三間5・1mとされているが、重要な脇往還は、大海道並みの広さがあり、一概には言えない。 主な脇往還、脇街道の数を地域的に示すと。東北地方:羽州街道等、約八十四 関東地方:四十七 中部地方:百二十 近畿地方:百六、中国地方:四十四 四国地方:三十二 九州地方:六十三・・・も存在。脇往還、脇街道の総延長距離は、のべ五千〜六千五百キロと想定され、さらに地域の小規模道を加えると、のべ一万二千〜一万五千キロに及ぶ道路網となる。 知名度の高い脇往還、脇街道:松前道、水戸街道、羽州街道、三国街道、佐渡路、北国路、伊勢路、中国路(山陽、西国など)、長崎路などがある。 五街道に直接繋がる主な脇往還は、以下の通り。 〈東海道〉 中原街道、下田街道、本坂通(姫街道)、美濃路、佐屋街道、矢倉沢往還。 家康が一五九〇年江戸入府の時、東海道は整備されてなかったので、平塚から中原街道を利用し、江戸入りしたとある。東海道ができ中原街道は脇往還となった。しかし、家康は特にこの道が好きで、相模方面に行くときにはいつも中原街道を使ったという。 〈中山道〉 川越街道、下仁田道、北国西海道、北国街道、伊那街道。 〈日光街道・奥州街道〉 水戸街道、日光御成道、日光例幣使街道、壬生街道、 佐倉街道、日光東往還など。 新しい道路行政の確立 家康は、まずかように道路を整備し、このルートを人、物、金の流通促進、さらには合理的な情報伝達機能を持つ宿駅制度を導入する。 五街道、大きな脇往還には、一定距離ごとに宿駅(宿場)が設けられた。宿場町を構成する施設は本陣、脇本陣、旅籠、そして問屋である。本陣は、大名、幕府役人など位の高い武家、公家が宿泊する専門施設。脇本陣は、それに準ずる位の武士、公家が宿泊する処。旅籠は一般の人々の宿泊施設。通常、宿場の中央には本陣、脇本陣、問屋場が配置され、左右に旅籠が広がる配置。 宿場運営で最も重要なのが問屋場で宿場行政の全てを取り仕切る役場みたいなもの。幕府書状の受け渡し業務、伝馬、人足の差配、為替、駅逓事務、物品の継立業務などの全てを取り仕切る処である。これこそ家康が初めて造った伝馬制度を実質差配する要所であった。