大多喜城と本多忠勝、忠朝親子 大多喜城は、御宿から約八里の山城である。今の地勢で云えば、御宿を出て、西方向に転じ、千葉を横断する大多喜街道(勝浦から東京湾市原)に出る。これを北上し、夷隅川の所で(船子交差点)左折、西に転じる。町全体が蛇行する夷隅川に包まれており、その内側に南北に城下町通りが突っ切り、ここを底辺として西へ迫り上がる山に築かれた城郭都市。城下町通り沿いには、江戸時代の古民家、宿、蔵屋などが建ち並び、今なお歴史の風情を感じさせる。夷隅鉄道(外房大原から来る)大多喜駅近辺に来れば、前方、遠くに現代の城が聳え、駅の左に大きな大手門(歓迎門)が道を跨いて立っている。 ■大多喜〜御宿関係図 本多忠勝 一五九〇年、家康江戸入府とともに、上総の地は家康のものとなり、十万石の大多喜藩が成立。家康は腹心の部下、本多忠勝を領主に派遣する。この地が江戸を守る重要拠点と見なしたからに他ならない。 忠勝は、周囲を夷隅川に囲まれた天然要衝の山頂に城を築く。ここはそれ以前から山城としての地形を備え、里見氏などの重要拠点であった。忠勝は、これを利用し、本丸、二の丸、三の丸を設け、ふもとに城下町を整備。本格的な近世城郭を造る。 本多忠勝は、徳川四天王、徳川十六神将、徳川三傑の一人。敵軍の武田をして「家康に過ぎたるものは二つあり。唐のかしらに本多平八」(忠勝の別名、平八郎。唐のかしらとは、家康のヤクの尾毛飾り兜)と言わしめた。本多氏は三河徳川本家の譜代。忠勝は、桶狭間の前哨戦で初陣、敵の首を挙げる。姉川の戦いでは朝倉軍一万に単騎駆けを敢行。二俣城の戦いでは最も危険な殿をつとめ、家康の撤退に成功、三方ケ原、長篠の大一番では、その戦いぶりに敵味方を問わずに賞賛され、本能寺の変では取り乱した家康を諫め、有名な伊賀越えを行わせる。小牧・長久手の戦いでは、豊臣十六万の前に家康は苦戦に陥ったが、五百名の兵を率いて駆けつけ、大軍の前に立ちはだかり、秀吉からも東国一の勇士と賞賛される。この時、秀吉は「あ奴だけは殺してはならぬ、将来、家来にしたいから」と語ったという。関ヶ原では、諸大名に書状を送って東軍方につける工作に活躍。戦場では、常に家康の矢面に立ち、生涯における合戦五十七回でかすり傷一つ追わなかったという。また、武勇の人でありながら、大阪の役後、家康が散々に煮え湯を呑まされた真田家の存続を嘆願し、結果として、真田家は、信濃上田領を江戸末期まで存続。徳川家に忠誠を尽くすことになる。こうした断トツの功績から家康の忠勝への信頼は、「極まれり」ということになる。忠勝辞世の句に「手柄を立てなくても、事の難に挑みて退かず、主君と討ち死にしても忠節を守る。これぞ侍」という一節があり、彼の信条を良く映し出している。世の中が安定し、同じ本多一族の本多正信がいわば権謀術数をもって、幕府を牛耳ることになり、晩年不遇とされているが、忠勝は正信を嫌い、「あやつとの血筋は全く無関係」とまで言い捨てている。そこには敵軍からも賞賛された、清廉潔白な武士の姿が垣間見える。 こういう人が大多喜城を築いたのである。難攻不落。城下町も栄えた。かくて、大多喜は、一万二千の人口と上総中枢の重要拠点となったのである。大多喜藩初代十年、事が成ると、忠勝は桑名十万石の領主となる。従って忠勝の墓所は、桑名浄土寺と大多喜の、彼が開基した良玄寺にある。そして夷隅郡大多喜は、忠勝の次男、忠朝に引き継がれる。この人がまた父親の清廉潔白な武人の血筋を受け継ぎ、一六〇一年、若いながら家康の愛することこの上もない大多喜の二代目当主となる。こうしたおり、一六〇九年、ロドリゴは御宿岩和田に遭難漂着したわけである。ロドリゴの幸運とはまさにこのことにあった。 本多忠朝 忠勝には、長男忠政と次男忠朝がいた。忠政はどちらかというと政治家タイプ。忠勝の気性を継いだのが忠朝である。であるから、忠勝はかわいくてしょうがない。しかし、死するに及んで、家督は無論、資産も全て長男の忠政に譲る。忠政は桑名領主二代目となり、忠朝を大多喜城二代目に指名した。 この時、忠勝は、蓄えの金一万五千両だけは、忠朝にと遺言した。しかし、忠政はこれも自分のものとして蔵にしまった。周囲は騒ぐ。だが、忠朝は「兄は多くの将兵を抱え、なにかと物入りがかかる」とあっさりこれを拒否。この弟の態度に、忠政は恥て、この金を半分にし、忠朝に分け与えんとする。すると忠朝はこれをも固辞して受け取らない。忠政はそれでは俺の気持ちが承知しないという。しかたなく、忠朝は「それなれば、その金を縛って兄の蔵にそのまま保管しておいて下さい。余程のことがあったときのみ使わせて頂きます」と話をまとめた。無論、忠朝はその金を生涯使うことはなかった。こういう高い品格の持ち主だから、御宿での異国人の遭難に、家来の反対を押し切って、助けるどころかその先の友好に繋げ得たのである。 忠朝は、家康の小姓として育った。だから、家康が可愛くないはずがない。初陣は関ヶ原。父親に引けを取らぬ武将になった。ロドリゴ一行を助け、スペインのヌエバ・イスパニア、首都メキシコとの友好の絆を築くことになった一六〇九年から六年後の一六一五年、家康最後の戦いとなった大阪夏の陣。淀君、秀頼は、腹を切り、大阪城は炎上。以後、大きな戦は明治維新までなかった。敵将、真田幸村の活躍もあり、家康の心胆を寒からしめた、この戦で、忠朝は獅子奮迅の活躍をし、三十三歳の命を終えることになる。黒田官兵衛の子、長政が大阪の役の戦勝記念として描かせた、有名な「大阪夏の陣図屏風」がある。戦場で入り乱れて戦う夥しい将兵が描かれているが、この絵の主人公は、家康でもなければ、悲劇の英雄真田幸村でもない。屏風絵を描かせた黒田長政でもない。屏風絵を眺め回すと、中央に複数の敵を相手に奮戦する騎馬武者に目が行く。そうそれが忠朝なのである。この有名な屏風絵の主人公は、忠朝である。戦い終わって、数人の家来が彼の遺体を台車に乗せて家康の前を通りかかる。家康は家来を止め、しげしげと忠朝を見、頬に手を触れると号泣したという。そしてその場で、その家来達に褒美をとらせ、忠朝の家来で生き残った者があれば、一人残らず感状を与えるように命じた。 そういう親子が築いた大多喜城であるから、堅固なことは、この上もない。多くの民衆がこの地に集まり、城下町は繁栄し、あたかも房総の中心地のごとき活況を呈するに至る。大多喜の殿、本多忠朝は、民衆の崇拝を受け、忠朝も領民の幸せに応える。しかも、江戸城にいる二代将軍秀忠、駿府の大御所、家康と密接な連絡を常に取り合っており、その信認も厚い。領下の御宿に遭難したスペイン人の報に接したとき、家来の反対を押し切ってまで、救助した御宿の民衆に謝意を呈すると共に、支援に踏み切った。まずは、彼の人道的な信念から。それに家康がスペインとの交易を望んでいたということを知っていたこともあろう。ロドリゴのことも逐一、秀忠、家康に知らせ指示を得ている。 大多喜の殿は、御宿でロドリゴ一行と初めて会見した時に約束した、遭難者三百十七名の食料を初めとする、生活物資支援を始める。御宿村民の各家で手厚い介護を得、人々は元気を取り戻し、村民との交流・密着度もますます高まっている。こうして三十七日間の御宿での生活を終え、全員大多喜城下へと引き取られることになる。ロドリゴを初めとする彼等の不安は払拭され、日本の民衆と、神の加護に感謝した。