御宿から大多喜城下町へ 御宿岩和田で遭難し、村民に助けられたロドリゴ一行三百十七名は、村民の家での分散生活にも慣れ、交流も日増しに高まった。約一ヶ月後、大多喜の殿から連絡があり、全員、大多喜城下に引き取られることになった。なにしろ、村民三百名の御宿寒村が、三百十七名の面倒を看たのであるから、いくら殿から物資の援助があったとはいえ、村民にとっては大変な苦労である。しかし、御宿の人々は、不平を鳴らすどころか、熱き心で異国人に接した。言葉は分からずとも、以心伝心で会話が成り立つようになり、彼等の衣類は洗濯、繕われ、日本の食生活にも親しみ、特に酒をこよなく愛する者も出た。指揮を執った名主の岩瀬家が酒の醸造を生業としていたことも大いなる糧であった。現在も続く岩瀬家の醸造。井戸から汲み上げる生鮮な水で造られる、清酒「岩の井」は絶品である。そしてその母屋の天井の梁は、太い。これこそが、ロドリゴが乗っていた、サン・フランシスコ号のマストなのである。 座礁、損壊した船の荷、破片は全て片付けられ、倉庫に保管された。御宿で三十七日間、救助されたイスパニア人達は、遠路はるばる大多喜へと向かう。世話になった村民達と泪の別れを告げ、約八里強の道を北へと移動した。 大多喜城 大多喜城下では、殿、本多忠朝の下知のもと、宿、大商家、寺等の協力を得て、異国人の住まいを割り当て、準備万端、開けて待っていた。領主、忠朝と領民との日頃の親密な関係をここでも垣間見ることができる。 ロドリゴは城下町の賑わいを見て驚く。南北に連なる城下町通りの左右には、宿、陣屋、大商屋などが軒を並べている。自分は、その一つに居住しているのだが、ほぼ城下町通りの中央である。この目抜き通りを左に歩けば、右側の城郭から一本細い川が流れ下っており、道を跨いで東に下り、下に流れる夷隅川に注いでいる。その先は夷隅川を突っ切って南へ続く。夷隅川を渡った後も、道の左右には、まだ民家や商家が連なっている。今度は宿を出て通りを右へ行くと、左上城郭から二本の川が流れ落ち、やはり道を突っ切って右下の夷隅川に流れ込んでいる。 ■1 大多喜城と城下町 元禄年間古地図 ロドリゴ一行が大多喜に到着すると、殿、忠朝の使者が待ち受けており、殿から「遠路、ご苦労。近日、城に出向いて欲しい」との伝言。使者は、てきぱきと三百十七名の宿を配分し、ロドリゴはようやく落ち着いたところである。そして主立った数名を連れ、城へと出向く日がやってきた。 ここで当時の大多喜城郭の様子を表していると思われる、元禄年間に描かれた伝来絵図をもとに、再現してみよう。ロドリゴ達は、城下町通りのほぼ中央から上(西)へと登る城へのメインルートを行く。この先は山に向かう上り坂。城郭は、城下町から見るととにかく高い。家来達に案内され、城下町通りからちょっと行くと、まず、第一の門がある(駅の近辺)。これを通過すると、眼前に深い堀があり、跳ね橋が架かっている。緊急時には、この跳ね橋が上がり、敵の侵入を防ぐ。つまり、ロドリゴの時には、これから山に登って展開する、城郭全体を内堀が囲んでいた(この堀が今は道路と化している)。堀の深さは十メートルを超えると彼は記している。この跳ね橋を渡ると、眼前に頑丈な第二の門がある。これが大手門で鉄締めがふんだんに使われた枡形門であったと想像される。その位置は、ちょうど今の夷隅鉄道大多喜駅に向かって、右上になる。門の周囲は、高さ五メートルほどもある城壁に囲まれている。鍵型の門を潜って出ると、長型の番屋があり、百人あまりの兵士が詰めている。ロドリゴ達は、槍を持った家来三十名ほどに礼儀正しく挨拶され、城へと案内される。城郭の右側を縫って登る道を行く。この道の左側には三の丸の館があり、城壁に敷切られたその上には二の丸御殿がある。さらにその上の山奥には、天守閣を含めた本丸。本丸の背後には詰めの丸を備えている。これら全てが内堀に囲まれているといって良い。堀水が流れ、さらにその内側には、落ちたら底のとがった石にぶつかり、けがをする空堀があちらこちらに設けられている(空堀は、その存在が見分けにくいようにできている)。 大多喜の殿、忠朝が普段政務を行っていたのは、この二の丸御殿(今、大多喜高校)であろう。したがって、ロドリゴ一行もここに通されたと思われる。大多喜城の家来達に従って、三の丸をやり過ごし、ちょっと上に登り、左に折れる。すると鉄で覆われた堅牢な門があり、兵士が一杯詰めている。二の丸の館が建ち並び、奥の本丸沿いに御殿がある。 殿は二十人ほどの家臣と共に玄関で待ち受けており、あなた方を迎えてうれしいと挨拶。数名の家来に屋敷を案内させ、殿のいる屋敷に着き、席に着く。ロドリゴは、「部屋は金銀の細工で彩られ、彩色は美しく、床から天井に至るまで素晴らしい」と評している。殿は、大御所、家康の考えをロドリゴに伝え、江戸城にいる二代将軍、秀忠の意も同じ。数名の部下と共に江戸、駿府を訪問し、直接会うように準備していると語った。それはロドリゴにとって夢かと思われるほど感謝の念を湧出させずにはおかぬものであった。その後、殿は武器庫にまで案内し、ロドリゴはここでも立派さに驚き、殿のいる御殿で晩餐の場に案内される。一膳目から次々と料理が運ばれ、殿は舞いを披露、一行は歓待された。 それからしばらくして、日本の武士の服装をした、異国人が大多喜を訪れ、殿に紹介される。彼はにっこりと笑って握手し、大御所家康様の通行証と朱印状を手にしてきた。ロドリゴはイギリス人と聞いて、身を固くする。なぜならイギリスとスペインは、戦いのさなかにあったからである。しかし、そのイギリス人はそんなこと意にも介さず、大御所の意志を伝え、大御所の通行証と朱印状を手渡し、自分の身の上話、つまり大御所に救われた話を語って聞かせた。この人こそ、ウィリアム・アダムス、三浦按針であった。 ウィリアム・アダムスは、大御所家康の意を伝える。大多喜の殿、忠朝から聞かされていたことを正式に伝えに来たのである。要旨は四つである。まず、忠朝は我が意を汲んで、善くぞ、貴方たちスペイン人を助けた。これが私の本意である。第二は、「海岸に打ち上げられた船の財産は、全てドン・ロドリゴ達の所有とする。したがって自由に処分せよ」。ロドリゴは改めて驚く。これは、異例のことである。当時、全ての国で、遭難、座礁した船の残留物はその国に没収される、というのが通例であったからだ。それをロドリゴに全て与えると云うことは、勝手に処分してよろしいということである。後日、ロドリゴは悩んだ据えに、受け取った、収納倉庫の鍵を船長セピコスに渡し、回収した全てのものをヌエバ・イスパニア(フィリピン)に戻し、売却処分したらその売り上げをマニラの持ち主に渡すように命令した。ロドリゴがこうするであろうという、高貴な判断を家康は見抜いていたのである。第三が、将軍秀忠がいる江戸城と大御所家康がいる駿府城を訪ねること。そのために、安全に旅するために家来をつけ、家康の通行証と朱印状を渡すというのである。その道中において、その処、処の領主がロドリゴ一行を歓待し、必需品を時には提供するなど、幕府の重臣に申し伝えてある。さらに家康は、大多喜の殿、本多忠朝とこの書状を持参したウィリアム・アダムスは、私が最も信頼している家来であることを伝えている。ロドリゴは、殿からすでに聞いているとはいえ、この国を支配する徳川家康から、御宿に遭難してから今まで予想だにしなかった、このような歓待意志を直接、聞かされ、感動のあまり涙した。これから約一年後、太平洋を横断、ヌエバ・イスパニアの首都メキシコ・シティに帰るためには、このウィリアム・アダムスの援助なしには実現しなかった。ここで、ウィリアム・アダムス、三浦按針が日本に漂流遭難し、家康に助けられ、家臣となった経緯を語らねばならない。 ■2 初代、本多忠勝が掘った大井戸。水量が豊富で「汲み尽くせぬ井戸」といわれた。本丸から二の丸跡(大多喜高校校庭)を見下ろす位置。 ■3 本丸の模擬天守閣