ロドリゴ、臼杵へ ウィリアムアダムスに建造させた初の外洋船を提供するという家康の破格の好意に対し、ロドリゴは、恐縮して申し出る。「豊後臼杵に漂着した僚船、サンタ・アナ号の様子を見てみたいと思います。この船が傷んで駄目なら、ご提供の船を使わしていただきます」と。「そうか。それもよかろう。それなら臼杵までの道中の安全を手配してやろう」。 この最初の会談で、家康は「貴国には優秀な技術を持つ銀採掘技師がいるという。数十人我が国に派遣してくれれば、相当の報酬を払う」。とロドリゴに申し出ている。この具体的な外交提案は、家康のスケールの大きさを如実に示している。家康はスペインとの交流、互恵関係を望んでいるのである。「再び駿府に戻りましたら、両国の交流について意見を申し上げます」ロドリゴは応える。こうして、彼等一行は、臼杵に向かった。家康の命令が行き届いており、行くところ、行くところ、歓迎の嵐。東海道を西へ。京都に着く。 京都。方広寺大仏 ロドリゴは、京都の広さと格調のある町並み、建築美、どれをとっても自分の知る限り世界最高の処と評価。彼は、方広寺の大仏と秀吉の墓、豊国廟の印象を目にしたまま見聞録に書いている。 方広寺の大仏。「それは想像を遙かに超える大きさの偶像でした。同行した長身の日本の方に登ってもらい、大仏の親指部分を抱いてもらいましたが、両腕は四十センチも足りませんでした。これは同行の人々も見ていたことでもあり、決して嘘ではありません。しかも、著名な画家が完全に描いたにしても、この大仏の美しさには、とてもかなわないと思います」。「大仏殿はまだ建造中でした」。秀吉が晩年、最初に造った大仏殿と大仏は、大地震で崩壊し、秀吉亡き後の一六〇六年、秀頼が再建着工祈願。ロドリゴが見た一六一〇年には、銅製の巨大な大仏の原形は完成していたようで、これを囲む巨大な大仏殿は、工事が始まったばかり・・・の様子が覗われる。この大仏の再建には、家康も協力しており、事実、大仏の表面に張られる板金は、江戸で造らせている。秀吉が最初に造った大仏殿の大きさは、高さ四十九メートル、南北八十八メートル、東西五十四メートルという巨大なもの。ロドリゴが見たとき、同規模の大仏殿の再建が始められていたわけである(大仏殿は今の豊国神社が立つ位置にあった)。この大仏と大仏殿の大きさは、奈良東大寺の大仏を上回るものであり、「京の大仏」として全国の人々に轟いた。大仏殿を含む当時の方広寺境内の規模は、現在の方広寺、豊国神社、京都国立博物館、妙法院、智積院、三十三間堂を含む広さであった。そしてロドリゴ参詣の、四年後に、大阪の役が始まり、豊臣家は消滅。方広寺も全て灰燼に帰す。だが、江戸期に入って、木造の大仏と大仏殿だけは再び再建され、京の大仏として評判であったが、これも火災により焼失してしまった。そうした意味で、ロドリゴの見聞録は、大変貴重なものである。 豊国廟 ロドリゴは、方広寺から阿弥陀ヶ峰山頂まで続く三十万坪に及ぶ豊国廟にも訪れている。「参道は白玉石が敷き詰められており、両側に石灯籠が一定間隔で並び、夜には灯がともり、壮観である。この参道が終わると、阿弥陀峰に登る、長い石段がある。これらの周囲には壮麗な僧院が建ち並び、石段を登り切ると、また壮大な御堂が建っている。正門は、金銀を磨いた見事な透かし彫りが施され、巨大な柱で支えられている。その様は、イスパニアの大聖堂を想起する」。 これらは貴重な証言である。なぜなら、ロドリゴが見た四年後、家康は方広寺鐘銘事件を起こし、大阪の役が始まり、豊臣家は、一掃され、ロドリゴが見聞した、方広寺も秀吉廟も、全ての建造物が焼き払われ、灰燼に帰したからである。家康は、これら全てを歴史建造物として残せなかったのであろうか。時代は揺れていた。方広寺と秀吉廟は、豊臣の精神的支柱である。彼等が決起するとしたら、ここが起点になる。そうなれば、家康の真の目標たる、安定した全国平定、持続する平和の実現は不可能。家康はそう判断したのであろう。そこで、大仏と大仏殿だけは再建したのである。しかし、家康死後、江戸時代に入って五十年後、これも地震で倒壊。壊れた大仏は、寛永通宝に化ける。そして再び、木造大仏が造られたものの、一七九八年、大仏殿に落雷。全てが灰燼に帰すことになる。明治になって、明治天皇は方向院のみを復活させ、荒れ果て、苔むし、剥き出しになった秀吉の墓台に、巨大な五輪塔墓が再建され、墓に至る、長い石段ができる(五百六十五段)。それが現代の姿である。 ロドリゴは、壮麗極まりない豊国廟に参拝したが、その時、ロドリゴの心に蘇った悲劇があった。それは、一五九六年、一隻のガレオン船が暴風で土佐の浦戸に漂着。この時、聖職者を目指す、乗船者の一人の若者が捕らえられ、他の二十五名とともに長崎で磔刑されたのである。後の文学、絵画で語り継がれる「日本二十六聖人殉教者」。処刑したのは秀吉である。そんな思いにとらわれたものの、「それにしても太閤様の御廟は、壮麗の一語であった」と述べている。 ロドリゴは、所司代、板倉伊賀守の案内で、「天皇の住む、御所」も見ている。そこは、江戸や駿府の城に近い印象だが、華麗なだけでなく、高い格式を感じる」。「板倉は、私をとても歓迎してくれ、話は弾んだ.彼は、イスパニアの様子をしきりに尋ねる。それに私も丁寧に答えた。喜んだ彼はそのお礼にと都のことをくわしく話してくれたのである。京都を見て、私はイスパニアの首都より優れていると正直思った」。 三十三間堂 ロドリゴは、三十三間堂にも案内されている。そこでは馬場が三列取れるくらいの広さに驚いたが、それにも増して、千体もの観音立像を拝観し、日本人の造る、彫像の美しさ、凄さに声を上げる。また、日本には、釈迦、阿弥陀を軸とした宗派が三十五もあるが、全く対立がないと板倉から聞き、感慨ひとしおであった。しかし、これら仏教宗派がこぞって、カトリックの修道士を追放するよう、将軍に請願したと聞き、一抹の不安を覚える。だが、将軍秀忠は「三十五もの宗派が争いもせずに存在しているのだから、それが三十六になったとて困ることはあるまい」と退けたという。彼は、家康と秀忠の考え方に感じ入る。 余談になるが、古代ローマ帝国は、領土を広げた地域の固有の神を、全てフォロ・ロマーノに集め、自由に祈れるようにした。この姿勢があったからこそ、大ローマ帝国ができ上がったのである。ロドリゴが聞き及んだ、秀忠の宗教的姿勢は、評価すべきもので、彼は、このすてきな国で、キリスト教の布教を願った。 伏見から大阪へ 都の美を堪能し、ロドリゴは、京都伏見に赴く。華麗な伏見城。秀吉が町割り、開発した城下町の景色を楽しみ、「町は都より狭いものの、すばらしい施設の数々」との感想を述べている。伏見から一行は船に乗り、大阪に出る。宇治川、淀川の船旅。快適そのもの。その景色の良さに、彼は、スペイン、セビリアの光景を思い浮かべた。 大阪、そして臼杵へ 大阪では、サンフランシスコ派の神父の家に泊まる。「大阪の人口は二十万人。ここは日本で最も美しく立派な町と言えよう。民家はおしなべて二階建て、構造的にも優れている。そして海産物も潤沢な町」。その後、一行は、船で瀬戸内海を渡り、豊後に辿り着く。ロドリゴは、「毎晩、陸に上がって眠った」と記す。 豊後臼杵に着くと、彼は、目的の僚船、サンタ・アナ号の状態を調べる。この時、同船は陸揚げされており、子細に見ると相当傷んでいる。しかももともとこの船は老朽船。馴染みのスペイン人船長は、私達の帰国に提供しても良い・・・といってくれたが、ロドリゴは、この船で太平洋を横断するには危険すぎると感じる。 確認を終えると、ロドリゴ達は再び駿府に引き返す。道すがら彼は改めて思う。「道中、どの町も道も清潔。ゴミ一つ落ちていない。どこでも食べ物は潤沢にある」。こうして駿府に帰ったロドリゴは、なんとここで数ヶ月も滞在することになる。 【参考資料】 「ドン・ロドリゴの日本見聞録」 安藤操 谷口書店 「条約から条約へ」墨日関係史ノート。在日メキシコ大使館。アニーバル上原。 その他