友好の絆 ロドリゴの御宿での遭難、必死に救助した御宿の人々、大多喜城主本多忠朝の当時の常識を覆す支援、そして家康の心温まる友好の絆。互いの国情四百年の紆余曲折を経て、ドン・ロドリゴと家康の友好は明治以降に見事に結実する。 日本とメキシコの間で一八八八年に取り交わされた「修好通商航海条約」は、日本が海外と締結した初めての完全対等の平等条約であった。そしてこのことが、それまでの不平等な米英通商条約を改訂するきっかけとなったのである。 一九二八年、ロドリゴの御宿での遭難地に日西墨交通発祥記念碑が建てられた。この時、一役買ったのが実業家、森コンツエルンの創設者、森矗昶で、その高さ十七・五メートルの白い、大理石の塔は、ロドリゴの遭難海岸を見下ろす高台に今も燦然と立っている。森矗昶は、社会の改変を目指す、希有な実業家で電力事業、化学肥料、アルミニウム事業を興し、昭和電工の創設者として名高いが、自身何と千葉県夷隅郡の出身なのである。昭和三年十月一日、この記念塔の除幕式でテープを切ったのが娘、森睦子十一歳であった。後年、総理大臣、三木武夫夫人として夫を支えた明晰な発言が今も耳に残る。不思議な縁である。 この記念塔の正面の題字は、家康の末裔、徳川侯爵が書き、側面にはスペイン国王の親筆、メキシコ大統領のメッセージが刻まれている。前者は、「両国の外交、通商、不変の親交関係を築いた、我が光輝ある偉人ドン・ロドリゴ・ビベーロに対し、謝意を表す。アルファンソ国王一九二七年」。 ■記念塔 姉妹都市 一九七〇年代に入ると、日本とメキシコの各市との姉妹関係が相次いで結ばれる。一九七三年、支倉使節団と関係ある、仙台市とアカプルコ。そして、一九七八年には、御宿町とアカプルコ、大多喜町とクエルナバカ市とで姉妹都市提携が結ばれる。この年は、また特別な出来事があった。戦後、メキシコの歴代大統領は、例外なく日本を訪問しているが、この年には、ロペス大統領がたっての望みと御宿を訪問したのである。この訪問には、他ならぬ四百年前の遭難者を救助してくれた御宿の人々に対する感謝が込められていた。ヘリコプターから降り立ったロペス・ポルティーヨ大統領は、日本の「はっぴ」を着、日の丸の扇子を振りかざしながら、タラップを降りると、待ち構えていた、御宿の若者が担ぐ御輿に乗ったのである。そして町中を練り歩きながら、町民の歓呼に応えた。その第一声が「エルマーノ」であった。彼は、その言葉を連呼したのである。それはまるでロドリゴの魂が乗り移っているかのようであった。メキシコ大統領が御輿に乗って民衆の歓呼に応えている。このこと事態に、大統領の身の安全を守ろうとする、外務省、警備当局は驚愕した。それにしても、ロペス大統領の「エルマーノ」と民衆に応える第一声は、これが政治的なおざなりの訪問ではなく、身の危険を冒してまで、深く四百年前の御宿の村民に対する感謝の念が迸り出た言葉でもあった。思わずメキシコ大使館翻訳官、アニーバル上原も涙したそうな。 経済連携協定 そして二〇〇四年には、経済連携協定が締結された。その内容は、一八八八年の修好通商条約を彷彿とさせる、完全平等の無関税条約で、経済面だけでなく文化面も含む、最も親密な連携協定である。そして、この協定はメキシコ側から働きかけ、それに日本が応えたのである。これには畠山襄ジェトロ理事長、平沼赳夫(通産大臣)、橋本龍太郎(大蔵大臣)、そして小泉純一郎(総理大臣)の功績が大きい。とりわけ、目に見えぬ橋本龍太郎氏の努力は端倪すべからぬものがあった。これによって約四百年の時を経て、家康とロドリゴの友好の絆は完結したのである。それはまた純な人々のお互いに助け合う、純な思いが世の中を動かしてきた典型例でもある。 日墨四百年祭 ロドリゴが御宿で遭難し、御宿の民衆、大多喜城主、本多忠朝等に助けられて四百年。まさに二〇〇九年。御宿と大多喜両市で盛大、かつ心こもる四百年祭が開催された。この間、両市の準備は、数ヶ月に渡って行われ、あちこちに幟が立ち、処の人々は四百年前の祖先の行為に対し、感慨を新たにしていた。そして当日の式典には、メキシコ大統領と、日本からは、皇太子殿下が参加した。この時のメキシコ大使館、ルイス・カバーニャス大使の奮闘努力には、頭が下がるしかないもので、四百年祭は両国の人々の記憶に残るものとなった。この時、メキシコ海軍は、世界に残存するも希な大型帆船クアルテモック号を引き連れ、御宿沖に到達。海底の岩礁ぎりぎりまで海岸に近づき、夜は照明を灯した。それは、まさに四百年前、ロドリゴの乗ったサン・フランシスコ号の遭難現場の慰霊と救助村民への感謝を彷彿とさせた。海岸には御宿の幼稚園児まで並び、メキシコの国旗を振って歓迎。クアルテモック号の艦長は、「自分は、これまで世界を回って来たが、御宿の幼稚園児まで参加した、この日墨四百年祭ほど大感激したことはない」と語る。式典は、月の沙漠記念館の前で行われ、そこには駱駝に乗った王子と姫の銅像が建っている。詩人の「加藤まさを」がかの有名な童謡、「月の沙漠」を作詞した記念すべき場所。ロドリゴの魂を彷彿とさせる場でもある。 四百年祭は赤坂のメキシコ大使館でも行われた。この日も皇太子殿下が出席。何とそこには、一六一四年家康に贈られ、久能山東照宮で大事に保管されているはずの、重文の置き時計があった。門外不出の置き時計。諸外国からのいかなる要請にも断り続けてきた、その時計が大使館のレセプション・ホールの中央に置かれ、異彩を放っている。久能山東照宮の落合宮司が、事の真相を聞き、友好四百年の物証でもあり、徳川家康の遺品でもある、この時計を懐に抱きかかえて、東京の大使館まで駆けつけて来てくれたのである。両国の友好の絆を象徴する時計が殿下の前に置かれている。四百年、この時計が久能山を離れた時は一度としてなかったのである。加えて、外務省は一八八八年の、完全平等「日墨修好通商航海条約」の生の条約文を、そして伊東市長は、家康の命令でウィリアム・アダムスが建造し、ロドリゴが乗船し、帰国した、「サン・ブエナベントゥーラ号」の模型を、皇太子殿下の前で披露した。 この四百年祭を期に、メキシコ政府は、赤坂のメキシコ大使館の土地、一千八百坪を購入する。こんなことは海外でもあまり事例のないことである。エルマーノ、だからこその話である。そして四百年祭は日本だけではない。メキシコでも同時に、極めて盛大に開催されたのである。 一六〇九年御宿で遭難した、ロドリゴ一行を乗せた、サン・フランシスコ号の残骸、キールが、銘酒「岩の井」の醸造元、岩瀬酒造の母屋を支えている。じっと見上げていると、ドン・ロドリゴの姿、遭難者を助けた、御宿の人々、それを指揮した岩瀬家の先祖、大多喜城主本多忠朝、そして、禁令を破って、友好の端緒を開いた、徳川家康の大きさが彷彿と浮かんでくるのである。 ■岩瀬酒造の母屋と御宿で遭難したサン・フランシスコ号のキール 【参考文献/資料提供】 メキシコ大使館翻訳官 アニーバル上原 「条約から条約へ」墨日関係史ノート メキシコ大使館 「メキシコと日本」友好関係の奇跡 メキシコ大使館 「ドン・ロドリゴの日本見聞録」安藤操 たにぐち書店 「ドン・ロドリゴの幸運」小倉明 汐文社 岩瀬酒造株式会社 岩瀬能和