遭難救助 轟音とともに砕け散った船体。荒れ狂う漆黒の波。投げ出された船員達は、のみ込まれ、岩礁にたたきつけられる。転旬、辺り一面、何もかにもない、いつもの暴風の夜の光景。ところが、全身傷だらけになりながらも、岩礁にへばりついている者がいた。一度は波間に消えたが次の大波で岩礁に乗り上げた者もいる。ある者は気を失ったが、気がつくと岩にへばりついていた。 この船員は、天空に灯りを見る。灯台だ。あそこに行けば、助かるかも知れない。彼は岩から岩へ、幾度も海水を飲みながらも、必死に泳ぎ、岸壁の麓を掴む。それから闇の中を手探りで、たたきつける風に耐えながら四十メートル登る。ようやく岸壁の上に立つ灯台に辿り着いた。 宿直灯台守の乃美は、暴風雨の音に混じり、「どすん」という、轟音を耳にしている。船が水蒸気爆発で砕け散った時の音である。しかし、彼はその実態が何であったか、知る由もない。それからしばらくすると、灯台の戸を叩く音が聞こえる。何か叫いている。戸を開けると、そこに血だらけの、裸の大男がうずくまっている。日本人ではない。ともかく肩を貸し、中に引き入れる。男は大声で海の方を指さし、必死で何か言っているが何を話しているのか皆目分からない。だが海難事故だと直感する。彼は灯台に隣接する官舎にいる主任の滝澤に知らせる。跳んできた滝澤は、男に万国信号旗を見せる。男はトルコを指さす。さあそれから二人は懸命に応急手当を開始。血をぬぐい、ラードを傷口にぬり、包帯を巻く。そして滝澤は、小使いを樫野の斉藤区長宅に走らせる。ことは重大なり。予想通り、同じように全裸に近い、血だらけのトルコ人が九人もやってくる。 そこは紀伊大島であった。民謡に歌われる「ここは串本、向かいは大島、仲を取り持つ巡航船」の大島である。紀伊南端串本町。海沿いに熊野街道が走る。嘗ての熊野古道大辺路。沖合に杭を突き立てたように並ぶ、天然記念物「橋杭岩」。その後方に浮かぶ大島。 ■1 紀伊大島関係図 この大島の東端に立つ樫野崎灯台。その崖下が、トルコ軍艦の遭難場所であった。当時、大島の集落は、この樫野、そして南の須江、串本側の大島地区の三つしかなく、人口は、全部合わせても二千人強にすぎない。とりわけ灯台のある樫野地区の人口は一番少なく、僅か二百人程度。 ■2 樫野崎灯台 村の者が駆けつける 知らせを受けた樫野の斉藤区長は、ただちに部落民に知らせ、こぞって灯台に駆けつけた。そのうち何人かは嵐に混じる軍艦の爆発音を聞いたという。事の重大さが分かるにつれ、区長は大島、須江にも連絡。彼等も早速駆けつける。ともかく救助だ。 岩礁と崖の間の狭い海岸に駆けつける。夜が白むにつれ、惨劇の実態が明らかになってきた。まるで地獄の有様。狭い浜には無数の船の残骸と、混じって百人を越す人々が打ち上げられている。樫野地区の村民は一丸となって、彼等を引き上げる。身体を揺さぶり、大声をかける。唇に身を寄せ、呼吸を確かめる。だがほとんどの人が最早、冷たくなっていた。トルコ兵士達の衣服は剥ぎ取られ、傷だらけ。それでも村民は、少しでも身体のぬくもりを感じ、僅かな息を確認すると、衣服を脱ぎ去り、抱きしめたのである。異国人もなにもない。遠くから来ただろうに、ここで死なせてなるものか。この保温効果で数名の者が息を吹き返す。動けるものには手を貸し、重傷者は、蓮台に乗せ、次々と崖の急坂を灯台へと運ぶ。 ■3 遭難地風景 かくて数十人のトルコ乗組員は、灯台に引き上げられ、応急手当を受ける。当然、灯台では収容しきれず、隣の狭い官舎も一杯。 大島の各地区から六名の医師が駆けつけ、本格的な治療が始まる。皆、夢中である。灯台と官舎では、収容しきれないので、比較的元気なものから、近くの大乗寺に運ぶ。医師達は結局、無給で奉仕することになる。 こうした村民の、身を投げ出した救助と、医師と灯台守の懸命な治療の結果、実に六十九名の生存者を得たのである。結果的には、少しでも息のあった者も、その後、回復し、全員、本国へと送り返すことができた。だが、この海難事故で、五百八十七人ものトルコ兵士が犠牲になった。 遺体と遺留品捜査 村民達は、翌日から連日、まだ荒れる海に潜り、遺体探しに全力を尽くす。後日、遠く離れた地にも遺体が流れ着いたこともあった。しばらくして、提督オスマン・パシャの遺体も上がった。船の残骸やバックル、短剣、衣服などの残留物も可能な限り、探し出され、船の残骸は、板切れ一つに至るまで集められ、保管された。特質に値することは、この作業がその後の数年も続くのである。 大島村村長の素早い処置と連絡により、明治天皇はつい先日、晩餐会などで歓待したエルトゥールル号乗組員、国王への親書を託した、提督オスマン・パシャの災禍を知り、涙した。天皇は直ぐさま、赤十字の医師や看護婦を派遣。万全の処置を執った。 食と衣服を 重傷の者もどうにか命を取り留めることに成功したのは良いが、問題は回復のための食料であった。寒村である。しかも、この年は不作で農作物の収穫も少ない。加えて、海のしけが多く、漁獲量も極端に少ない。えらいことに村民は自分達の僅かに蓄えた食料を、惜しげもなく振る舞ったのである。中には、自分達の食を控えてまでも、彼等の命をつないだ人もいる。ついには、とっておきの鶏までつぶして食を振る舞うことになった。しかも、その調理はできるだけ、彼等が食べやすいように西洋風に工夫して提供したのである。トルコ兵士達は、それを知って涙した。皆、裸同然だったのだから、村民達は、自分達の衣服を与えた。そうした点も、四百年前に御宿で遭難したスペイン船乗組員の救助と同じである。その真心と処し方は、日本文化伝統のなせるわざと云わざるを得ない。 別れ こうして命をつないだトルコ兵士達は、治療も待遇も十分な神戸へと移送されることになった。この時、たまたま神戸にいたドイツ軍艦が助け手に出て、大島まで来て彼等を乗せて神戸に戻してくれたのである。トルコ兵士達と村民の別れはつらかった。双方とも全員涙でくもり、トルコ兵士の中には、泣きじゃくって艦橋でうずくまる者もいた。そうして互いの姿が見えなくなるまで、手を振り合ったのである。 墓地と慰霊碑 樫野崎では、トルコ兵士達の遺体を丁寧に葬った。発見した遺留品は、ことごとく持って行かせ、船の残骸も彼等の意向に従って、適切に処理した。遭難翌年の一八九一年(明治二十四年)、村民達によって建てられた墓地に、「トルコ軍艦遭難の碑」が建てられた。この時には、高さ二メートルのささやかなものだったが村民達の心がこもっていた。一九二八年(昭和三年)には、大々的な追悼祭式典が行われ、翌昭和四年には弔魂碑が建立され、十年ごとに式典が開催されることになり、一九三七年(昭和十二年)には、今日見る大きな立派な慰霊碑が完成したのである。墓地や慰霊碑の掃除は、いつの日から樫野小学校(現串本町大島小学校)の子供達の仕事になり、第二次大戦中も、途切れることなく、現在も続けられている。樫野崎に行けば、今も幼い子供達でさえ、「エルトゥールル号」という一般の日本人には耳慣れない言葉を口にすることができる。村人達は、親から子へ、またその子へと遭難事件のことを伝えて、弔って来たのである。 ■4 慰霊碑 【参考文献】 「明治の快男児トルコへ跳ぶ」山田邦紀・坂本俊夫著 現代書館 「エルトゥールル号の遭難」寮美千子著 小学館 「トルコ世界一の親和国」森永堯著 明成社 画像 ウィキペディより・その他