帰国 遭難から五日目の二十一日、日本の軍艦八重山が紀伊大島に到着した。前日にドイツの軍艦が生存者を神戸に運んだ後であった。しかし、八重山の三浦艦長は立派な人で途中、海に浮かぶ一遺体を収容し、到着すると、雨の中、埋葬式に参加した。明治天皇からは三浦艦長宛に生存者を東京の慈恵医院に連れてくるよう電報を受け取る。そこで、二十二日身元確認のため残っていた二人のエルトゥルルー号乗組員を乗せ、神戸に向かった。 その日も、漂着遺体十四名が発見され、それから連日、二十〜三十名の遺体を収容することになる。神戸に着いた三浦艦長は、神戸にいる六十九名を東京に連れ戻そうとするが、重傷者二十三名の今すぐの移動は危険だという医師団の意向を尊重。明治天皇もその知らせを受けて、神戸で手厚くもてなすよう指示し、東京から赤十字の医師団を派遣する。特に赤十字などから派遣された数名の看護婦の、献身的な看護には、トルコ生存者の涙を誘うものがあった。三浦艦長は用意してきた衣服と絹のハンカチ六ダースを生存者に支給。かくて順調に回復した生存者六十九名をトルコ本国に丁重に返すよう、天皇は軍艦比叡と金剛を神戸に派遣する。両艦は十月七日、横須賀を出港し、十一日に生存者を乗せて神戸からトルコに向けて航行することになる。無論、明治天皇からの親書、贈り物を携えて。 秋山真之 比叡と金剛は、当時としては日本の最新鋭軍艦である。香港、シンガポール、コロンボ、スエズ経由でトルコに向かった。そして、興味深いことに、この船には、練習航海を兼ねて、海軍少尉候補生も乗船していたのである。秋山真之もその一人であった。 秋山真之。後に日本海海戦でロシア、バルチック艦隊を撃滅したときの、作戦参謀。彼は、大学予備門(一高)途中から海軍兵学校に入学。丁度、トルコ軍艦遭難事件の明治二十三年(一八九〇)に兵学校を首席卒業。兵学校では卒業後、長期の遠洋実習航海がある。この時の一七期生は、比叡、金剛に乗り込み、遭難者をトルコに帰還させる任務も兼務していたのである。秋山真之もその一人であった。彼は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の主人公の一人。後年、ロシア、バルチック艦隊撃滅の立役者となる。秋山は、ただの秀才ではなく、作戦目的の達成をしっかり捉えた、希有の人であった。大学予備門では、郷里、松山時代からの親友、正岡子規の紹介で夏目漱石とも親交を結ぶ。日本海海戦(一九〇五年明治三十八年)で打電した彼の電文、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動、これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」(見通しが良いことは、当時砲弾戦の必須条件、波が高いということは、着弾猛訓練を積んだ我が方に有利という意味を暗に込めている)。そして司令長官東郷平八郎の連合艦隊解散の辞。終わりに「…古人曰く、勝って兜の緒を締めよ」(猛訓練は積むが、むやみに戦ってはならない)など、彼の草稿は秋山文学として名高い。徹頭徹尾、東郷元帥は、「その知謀湧くがごとし」と彼の能力を信頼し、海戦で、彼に賭けたのである。その秋山の海軍奉職の、初仕事がトルコ遭難者を本国に送り返すことであった。なんという縁か。 後年、この日露戦争の勝利に、オスマン帝国(トルコ)中が沸き立つ。我がことのように歓喜し、快哉を叫ぶ。このことは、遭難事件がもたらした、友好の絆に加えて、日本と同じようにオスマン帝国もロシアの南下政策に直面。ロシアと激しい戦闘を繰り広げてきたからである。クリミア戦争(一八五三〜一八五六)。それまでも広大なオスマン帝国領土は、ロシアも含めた欧州各国に浸食され、あるいは独立し、失ってきたが、最後がロシアの南下政策であり、嘗てオスマン帝国の国土であった、ウクライナは、侵略され、黒海に突き出たクリミア半島での激戦。この時には、帝国の領土をロシアに横取りされてなるものかと、イギリス、フランスも援軍を派遣し、ロシアに対抗した。ナイチンゲールがイギリスから看護士を連れて、イスタンブルに隣接する黒海側の後方支援地点で活躍したのもこの時である。ナイチンゲールの偉大さは、ロンドンに帰ってから、戦場医療の在り方を体系化、理論化し、頑迷な官僚を説き伏せて云ってみれば、医療制度を確立したところにある。このため、イギリスでは、彼女を統計学の祖とする声もある。嘗て、地中海を席巻したオスマン帝国海軍は、アブデュルハミト二世の頃には、見る影もなく、エルトゥルルー号の日本での遭難も、そうした背景を背負っている。 国王と面会 大いなる歓待 六十九名の串本トルコ軍艦エルトゥルルー号遭難者を乗せた、秋山の乗る軍艦、比叡と金剛は、無事地中海に出てトルコに着く。目指すは首都イスタンブル。ところが地中海とマルマラ海を結ぶダーダネルス海峡で足止めされる。時は一八九一年十二月二十七日。クリミア戦争終了の一八五六年からトルコ内のこの海峡は、全ての外国船の通行を禁止するという処置が取られていた。オスマン帝国(トルコ)は、クリミア戦争以降、地中海側からの敵国侵入を防ぐべく、ぴりぴりしていたのである。 比叡と金剛は、やむなくベシカ湾(トロイ遺跡近く)に停泊。ここでトルコ遭難者六十九名との涙の別れとなる。彼等は、皆、日本の水兵に抱きつき、頬を擦りつけ、涙を流していた。前夜、艦でトルコと日本の士官同士の祝賀会が行われ、友好の祝杯を挙げている。そこで日本側の田中艦長は、これまで幾度も通達してきたことだが、明治天皇の国書と贈り物をオスマン帝国(トルコ)国王アブデュルハミト二世に直接届けるまではこの任務は終わらないと述べる。国王は、送り返されてきた生存者や交流のあった士官達から、遭難の模様や、いかに日本の人々が身をなげうって助けてくれたかを初めて知り、驚きと感謝に涙する。特例処置。日本の船籍に限り、ダーダネルス海峡通過を認可する。知らせを受けた、比叡と金剛は、ただちに海峡を通り抜け、イスタンブルに寄港することになる。 ■トルコ地勢、比叡・金剛の経路 イスタンブルに着くと、その日からトルコを初め各国の海軍士官が比叡、金剛を訪れる。そして皇帝から明治天皇からの贈り物を早く見たいとの要望があり、田中艦長は金製の太刀や大花瓶などを渡す。士官宿舎として宮殿があてがわれ、至れり尽くせりの歓待を受けることになる。 年明けとともに、皇帝アブデュルハミト二世との会見が行われる。その日、艦長以下士官達は提供された、専用の馬車に分乗し、宮内庁正殿に案内される。首相以下全ての高官列席。大歓迎である。皇帝は、心底からの感謝を述べ、田中艦長は明治天皇の親書を手渡す。こうして、行く先々で歓迎の嵐を受け、滞在は、四十日間に及ぶ。二月に日本に向け出港。アブデュルハミト二世は刀、拳銃、サラブレッド馬などの明治天皇への贈り物を贈呈。特に皇帝の意向を伝えるために、トルコの特使も乗せる。こうして再び遠洋航海。比叡、金剛の両艦は一八九二年(明治二十五年)五月十日に帰国した。田中艦長は早速明治天皇に拝謁。皇帝との謁見の様子、膨大な贈り物の子細、大歓迎の状況などを報告。そしてトルコの特使は皇帝の意向を伝えた。 義捐金 さて、話を元に戻そう。エルトゥルルー号遭難の次第は、事件後すぐに、新聞各社の報道することとなり、義捐金の募集広告が掲載された。全国から膨大な義捐金が集まり、それらは負傷者の手当、記念塔、墓地敷設などに充当された。義捐金は、これにとどまらず、民間団体や個人が独自に集め、提供。例えば、芝増上寺の大殿では五百八十余名に及ぶ、犠牲者の霊を慰める大法会が催され、その場で、義捐金を募った。そして個人の活動家として際立つ人物が登場する。それが若干二十四歳の山田寅次郎であった。 【参考文献】 「明治の快男児トルコへ跳ぶ」山田邦紀・坂本俊夫著 現代書館 「エルトゥルルー号の遭難」寮美千子著 小学館 「トルコ世界一の親和国」森永堯著 明成社 その他、ウィキペディアなど