遭難事件から始まった、信頼、互恵、友好へ 生存者を送り届けた軍艦比叡、金剛がトルコを去る際、国王アブデュルハミト二世は、田中艦長に日本語教師を一人残してくれないかと依頼する。トルコの士官に日本語を学ばせたいというのである。艦長はこれに応えて野田正太郎を推薦する。彼は福沢諭吉が創設した時事新報の記者で、同社が集めた義捐金を持参し、軍艦に同乗してきた者。喜んだ皇帝は、彼をトルコ陸軍大学校に招致。そこで野田は選抜士官数名に日本語を教えることになる。イスラム圏初の駐在特派員の誕生である。 山田寅次郎の登場 山田寅次郎。後の山田宗有。茶道宗流の八世家元。若くして実家の中村家(沼田藩家老職の家柄)から茶道家元、山田家に養子入り。しかし、行動力溢れる彼は、茶道を高弟に任せ、もっぱら外国語の習得、出版事業に精を出す。海外との事業を興したい。そんな時、トルコ軍艦エルトゥルルー号の串本大島での遭難を新聞で知り、衝撃を受ける。何か支援することはできないか。トルコ遭難者支援の義捐金募集を決断する。精力的に飛び回り、講演し、その結果、驚くほどの義捐金集めに成功する。そして、その義捐金をいかなる手段でトルコに送るか思案。その結果、広い人脈を活用し、時の外務大臣青木周蔵との直接面談に成功する。寅次郎の行動力には恐れ入る。青木は熟慮の上、貴殿が直接トルコに届けたらどうかと進言。そして海軍がフランスで竣工の新鋭艦松島を引き取りに行くのでその船に同乗したら良いと助言する。さらに青木は、遭難者をトルコに送り届けた軍艦比叡の田中艦長を紹介。田中は寅次郎の乗り組みを快く引き受ける。この時、田中はトルコ皇帝が日本との初の通商取引を希望しているとさりげなく寅次郎に伝えている。寅次郎は、日本文化を知ってもらおうと、日本の美術品を調達。その中に、実家、中村家伝来の、鎧と兜それに豊臣秀頼所蔵の陣太刀があった。これは今に至るもトルコの宝殿、トプカピ宮殿に展示されている。ともあれ、今回の主目的は、義捐金を届けることにある。こうして田中の計らいで、船に乗ることができ、フランスで下船すると単独で、トルコのイスタンブールに到着する。この時、寅次郎若干二十六歳。着くと寅次郎は、田中艦長の紹介状を持って、早速、野田を訪問。野田はこの若者をいたく気に入り、面倒を見る。そして集めた多額の義捐金をトルコ外務省に届ける。寅次郎の到来は、日本の民間人が義捐金を提供するためにわざわざトルコに来たとトルコ中の評判になる。皇帝は感激して、寅次郎と接見。宮廷の馬車が迎えに来て、宮殿へと接待される。アブデュルハミト二世に拝謁。皇帝は義捐金に対して感謝の意を述べ、寅次郎を大歓迎。応えて、寅次郎は、中村家伝来の鎧と兜、秀頼の陣太刀を贈呈。皇帝は、エルトゥルルー号遭難事件の日本人の扱いに改めて感謝し、日本人を尊敬していると述べ、日本と国交を結びたいと熱く語り、寅次郎にイスタンブールにとどまって欲しいと語る。それには、お互いの言葉を理解する必要があるので、野田さんともども、陸海軍士官に日本語を教えてくれまいかと要請する。寅次郎にとっては、集めた義捐金を直接渡すこと。これがトルコに来た目的だが、トルコ側のかような歓待を受け、しかも漠然たるものであったが、嘗てから海外との通商の道に従事したいとの願望が芽生え、皇帝の意の通り、トルコに逗留することを決める。そして以後二十年に亘り、トルコに居住することになる。まずは、皇帝の指示通り、士官学校で野田と共に日本語を教え、またトルコ語を教わる日々が始まる。まもなく、野田は帰国し、一人、寅次郎が日本とトルコをつなぐ役目を果たす。 寅次郎は、皇帝からトルコ商工務省直轄の商品陳列館(海外物産の取引所)の日本代理人を委託され、日本製品の普及に尽力する。さらに寅次郎が懇意にしている、大阪の中村商店(繊維会社)がトルコとの初の交易を望み、イスタンブールに支店を設けることになる。寅次郎は、その支配人として活躍。日本画好みの皇帝に応え、各種の日本の美術品を納める。加えて、皇帝及び側近に茶の湯を披露。日本文化の伝播に尽力する。 この間、日本からやってきた著名人の接待も買って出る。徳富蘇峰、後の総理大臣寺内正毅、建築家伊東忠太、紀州徳川家十五代徳川頼倫など錚々たる人物が皆、寅次郎の世話になったのである。なにしろトルコには彼しかいないのだから。皇帝はますます日本を尊敬するようになる。民間の代理大使としての寅次郎の活躍は、めざましいものがあった。こうして第一次世界大戦勃発で帰国のやむなきに至るまで、寅次郎は日本とトルコの正式な外交関係樹立に向けて奔走。トルコで最も有名な日本人となった。なにしろイスタンブールには「山田寅次郎広場」があるほどである。 帰国後の寅次郎 帰国後は大阪で製紙会社(三島製紙所)を立ち上げ、事業展開。日本とトルコの交流に尽力し続ける。一九二五年、大阪商工会議所が中心となって日土(トルコ)貿易協会が設立され、初代理事長に就任。翌年、高松宮殿下を総裁に招き、日土協会を創設。一九二八年には、日土貿易協会主催でエルトゥルルー号犠牲者の大々的な追悼祭を大島の樫野崎で開催している。 そして寅次郎は本業に戻る。茶道宗流の第八世家元として、ばらばらになっていた、組織をまとめ上げ、以後宗流の発展に尽力を尽くす。宗流は、忠臣蔵に関わりのある、吉良義央、大高源吾などを指導した山田宗(千宗旦の弟子)が創始した茶道流派である。本所に居を構え、江戸華やかなりし頃、非常に隆盛した流派であった。 トルコ共和国 時代は変わり、トルコ共和国が誕生。初代大統領ケマル・パシャ(アタチュルク=父なるトルコ人の意)から共和国記念祭の招待状が寅次郎のもとに送られてくる。彼は新首都アンカラに出向く。大宴会が開かれる。と、大統領はつかつかと彼の前にやってくる。そして、なんとこういうのである。「私はあなたと面識があります。昔、イスタンブールの士官学校で日本語を習っていた生徒の一人なのです」。ケマル・パシャは新たなる国造りの規範を日本に求めた。彼は執務室に明治天皇の遺影を飾り、尊敬の念を表していたのである。 【参考文献】 「明治の快男児トルコへ跳ぶ」山田邦紀・坂本俊夫著 現代書館 「エルトゥルルー号の遭難」寮美千子著 小学館 「トルコ世界一の親和国」森永堯著 明成社 その他、ウィキペディアなど